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川崎ゆきお超短編小説 コレクション 5

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2020年9月の記事一覧

万次郎坂

万次郎坂



 万次郎坂を登り切ると枝道がある。峰に向かう山道で、滅多に人は入り込まない。山の頂に用はないためだ。しかし峰伝いに歩いている人がいる。何処の誰だか分からないが、集団で移動していることもある。
 万次郎坂はその集団の中の一人の名前で、ここで果てている。特に何かをした人ではないが、里人との交流があった。万次郎小屋というのが峠にある。いつも移動する仲間と外れて、そこに定住した。そして商いをやっていた

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惰性

惰性



 何をどうしようと、大した変化がないことが分かってきた。ただただ淡々と過ぎていくだけ。いくら創意工夫をこらしても大きな展開にはならず、凄いことが起こることもなかった。
 それに気付いた下原は、懸命にやることを辞めた。どうせ何をどうやっても同じことなのだから、単に続けておればそれでいい。これで楽になったのだが、やっていることはまさに惰性。
「惰性の原理ですか」
「そうです」
「確かに物理的作用は

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幽霊電車

幽霊電車



 入ってきたのは幽霊電車であることは分かっていた。
 三村はホームのベンチに座ったまま立ち上がらない。見送るべきだろう。各停しか走っていない路線で、終点まで三駅ほど。
 幽霊列車は車両が古い。おそらくこの鉄道ができた頃のものだろう。木材も使われている。しかし電圧とか、そういうものは合うのだろうか。まあ、幽霊電車なので、動力はいらないのかもしれない。車輪の一つが欠けていても走るだろう、水平に。さ

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エアーアパートと風邪

エアーアパートと風邪



 柴田は相変わらずの暮らしをしているが、風邪を引いたようだ。
「一寸風邪なので、静かにしている」
 友人の笹原からの電話。
「じゃ、これから行く」
「だから、風邪を引いたので」
「気にしないから」
「こっちが気になる」
「急ぎの用なんだ」
「そうなのか」
「寝ているの?」
「いや、寝込むほどではないけど、今日は静かにしている」
「だったら、静かに聞けばいいから」
「そうなの」
「もう近くまで来

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欲心

欲心



「欲を捨てることで、別のものが見えてくる」
「はい」
「聞いておるのか」
「聞いています」
「では続ける」
「はい」
「欲に目が眩み周囲が見えなくなる。他のものでもいい。その眩んでいる目の近くにあるもの。実はそこに美味しいものがあったりするのじゃ」
「聞いていますが、もう分かりません。僕は何を見ればいいのですか」
「欲を捨てる。諦める。これは容易なことではないが、実は簡単」
「僕は何を見ればい

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ミスマッチ

ミスマッチ



「最近分からなくなりましたねえ」
「何が」
「欲しいと思っていたものが違うような気がして」
「あ、そう」
「欲しく手に入れてものが、案外、そうじゃないような。しかし間違ってはいない。確かに正解で、ど真ん中。これ以外考えられないほど」
「じゃ、良かったじゃありませんか」
「ところがあまり良いとは思わない。手に入れる前の高揚がなくなった。手に入れた瞬間、これだったのか、本当にこれだったのかと、少し

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暗い散歩

暗い散歩



 雨が降りそうなのだが降らない。雨を呼ぶような強い風が吹いているが、雲の流れが見えにくい。雲としての輪郭がない空で、真っ白。たまに色が変わるが無彩色、しかし濃淡があり、墨絵ほどには見事なボケ具合ではないものの、少しは変化がある。また灰色雲の手前に白い雲が流れて行ったりする。僅かながら輪郭がある。灰色と白との境界あたりが輪郭となり、白い雲に形があるように見えるが、それも風で流れて行くのか、形が変

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好みの問題

好みの問題



 秋風が吹く頃、温かいコーヒーが美味しい。まだ熱いうどんを食べると汗が出るが、食べやすくなった。
 うどんには何も入っていない。うどん玉を買い、醤油と砂糖で煮こんだもの。これをうどんすきと岸本は言っている。だが、具はない。
 コーヒーは部屋では飲まない。喫茶店で飲む。別に好きなものではないが、それが癖になっている。それでも方々の喫茶店で色々なコーヒーを飲むと、その違いが分かる。これは味の違いが

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シースルー少女の微笑み

シースルー少女の微笑み



 超能力者と噂される少女がいた。それを発見した毛羽博士は後悔した。その能力は主に透視。
 噂が噂を呼び、テレビ局に達した。
 公開の場で、生放送でその能力を試すためだ。透視少女、これはスケスケの服装ではないがシースルー少女と名付けられた。
 番組の主旨は決まっている。偽物であることを晒すこと。
 サイコなのでサイコロを振るわけではないが、出た目を当てること。サイコロは一つ。
 サイコロは振られ

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秋の収穫

秋の収穫



 稲が黄金色になり、もうすぐ刈り入れ。今年の収穫だ。
 それを見ていた田岡は少ししょんぼりとした。田植えをしなかったので、当然稲など実らない。刈り入れ時でも、刈り入れるものがない。だが、田んぼはあり、水田状態になっていたためか。ヒエとかアワが育っている。当然それより背の高い草も。水は涸れているが、草の種類は多い。中には実がなっているのもある。植えた覚えはない。マメ科の何かだろう。あとは庭鳥の餌

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無芸者

無芸者



 平田源八は考えさせられた。これはどういうことかと。
 武芸、ここでは刀や槍による試合だが、それに負けた。当然木刀で決められたときも、相手も強くは打たない。勝負があったため。突きも止める。怪我をするので。
 平田源八は何でもない技で負けた。平凡な太刀筋で、単に上段から振り下ろすだけ。そればかりの流派もあるほど、単純な技なので、技と言うほどではない。ただ勇気がいる。胴が全部開いているのだ。
 そ

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安穏

安穏



 日々安穏と暮らす。これはできるようでできない。できたとしてもしばらくの間だろう。
 忙しく働いている人が安穏と暮らしている、というようなことはあまり聞かないのは、忙しいと安穏とが水と油のためだろう。しかし、忙しい人が毎日忙しいのかというとそうでもない。たまにはゆっくりとしている日もあるだろう。その日は何もしないで、じっとしているかもしれない。それでは安静だが。
 忙しく日々立ち回っている人が

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蟻の田中

蟻の田中



 涼しくなりだすと、夏場死んだように働いていた蟻が動き出す。
 死んだように働く。それは働いているときの自分は死んでいるためだ。その蟻、田中は秋に蘇生する。
 そして死んだようにではなく、しっかり自分を生かした生き方に戻る。
 その蟻、田中がキリギリス宅を訪れた。キリギリス吉村は友人。この時期夏場の疲れで寝込んでいる。しかし、蓄えがないので、何ともならない。寝て治すしかない。
「うな重だ」
 

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意浴

意浴



 体調を崩しているとき、よくなれば、あれもしよう、これもしようと思うのだが、治ってみると、何もしない。意外と元気なときよりも、弱っているときの方が意欲が湧くものだ。
 それに気付いた坂上は、それならば体調を崩した方がいいような気がした。意欲だけは盛んで、元気。非常に前向き。しかし動けない。
 これは実際には今すぐやらなくてもいいので、意欲も湧くのだろう。実際には実行できないのだから。そして実行

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