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蜻蛉日記は愚痴日記!

こんにちは!
よろづの言の葉を愛する古典Vtuber、よろづ萩葉です。

今回お話しするのは「蜻蛉日記」。
大河ドラマ「光る君へ」にも登場して話題になっていますね。
蜻蛉日記とは一体どんな日記なのでしょうか?


蜻蛉日記の作者

蜻蛉日記は平安時代中期に書かれた日記です。
作者は藤原道綱母
右大将道綱母、とも呼ばれます。
時の権力者の息子で、順調に出世していた藤原兼家の妻です。

兼家との間に道綱を産んだので「道綱母」と呼ばれますが、本名はわかっていません。
大河ドラマ「光る君へ」では「寧子(やすこ)」という名前になっていますね。
恐らく父の名前、藤原倫寧(ともやす)からとっているのかなと思います。

道綱母は本朝三美人の1人と言われています。
さらに道綱母は和歌の名人で、蜻蛉日記には数多くの和歌が登場します。
勅撰和歌集にも多く和歌がとられるほどの腕前です。
「嘆きつつ〜」の和歌は百人一首にも収録されていますね。

嘆きつつひとり寝る夜の明くる間は
 いかに久しきものとかは知る

『拾遺集』恋四

衣服を仕立てるのも得意だったらしく、賢くて美人で、兼家にとっては自慢の妻だったようです。

兼家も藤原家のエリートで、側から見れば誰もが羨む夫婦だったはずです。

ですがこの兼家。
浮気癖が酷かったんです。

兼家の夫婦事情

道綱母と結婚した時、兼家にはすでに時姫という妻がいました。
しかも2人の間には道隆という息子が1人。
道隆が生まれたあたりの時期に、兼家は道綱母に熱烈な求婚をします。
そして結婚し、道綱が生まれると、
次は「町の小路の女」の元へ通い始めます。そして結婚。
その女性との縁が途絶えると、次は「近江」の元に通う…というように、
兼家には複数の妻がいました。

この中でも元々は道綱母を北の方(正妻)のように扱っていて
時姫と道綱母の間を行き来する生活だったようですが、
道綱母には子どもが1人しかできず、
結局、子どもを多く産んだ時姫が兼家の正妻として落ち着きました。
紫式部の雇い主である藤原道長は、この時姫と兼家との子どもです。

時姫は身分がそれほど高くないので兼家の正妻として相応しいとは言えませんが、それでも正妻になれたのは子どもを多く産んだからです。
そういうこともあるんですね。

兼家からすれば道綱母のことも大事にしているつもりだったのかもしれません。
ですが道綱母は兼家の、浮気を隠す気もない いい加減さがどうしても許せなかったみたいです。

蜻蛉日記には、そんな兼家との不幸な結婚生活が綴られています。
一言で言えば、夫の不倫に悩む愚痴日記です。

蜻蛉日記の目的

どうして道綱母が蜻蛉日記を書いたのか、その理由はよくわかっていません。
蜻蛉日記の序文に、

世の中に溢れている物語は所詮「作り物」である。
本当のことを記した日記を書こう、と思い立ち、昔のことを思い出しながら書いた。(意訳)

というようなことが書かれています。

その日に起こった出来事を書いていたわけではなく、あとから思い出して書いたんですね。
つまりこの蜻蛉日記の内容は、しっかり構成を考えた上で書かれているんです。

日記なので創作はないと思いますが、書くことと書かないことを取捨選択して、
兼家との冷え切った夫婦仲というテーマで書かれている、というのが蜻蛉日記の特徴です。
幸せな出来事もたくさんあったはずですが、そう言ったことは意図的に省かれているんですね。

蜻蛉日記の構成

蜻蛉日記は上中下の3巻からなります。

浮気性で豪快で女心のわからない兼家と、
繊細で真面目で、兼家のことが好きなのに意地を張ってしまう道綱母とのやりとりが中心の上巻。

兼家と距離を置こうとする道綱母と、
両親の間で苦しむ道綱の姿が描かれる中巻。

兼家が出世して遠い存在になり、やがて破局へと向かう下巻です。

名前の由来

蜻蛉日記という名前は、上巻の最後に出てくる

あるかなきかの心地するかげろふの日記といふべし

という一文から名付けられています。
当時から「かげろふの日記」と呼ばれていたのかもしれませんね。

蜻蛉日記の影響

源氏物語の作者・紫式部も蜻蛉日記を読んで影響を受けていたと考えられます。
当時、世間に物語は溢れていたようですが、作者は基本的に男性でした。
蜻蛉日記は女流文学の先駆けであると言えます。

ちなみにこの道綱母の姪に、菅原孝標女がいます。
孝標女は更級日記の作者で、源氏物語の熱狂的なファンです。

いろいろと繋がっていて面白いですね。


お読みいただきありがとうございました!

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