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お金に囚われ、貯めるばかりが能じゃないです。

ふと、「最近、お金の心配しなくなったな・・・」と、自分を顧みて思った。

若い頃は自販機でジュースを買うのも、いろいろ考えて控えたりしていたけれど、最近はなんの考えも無くお金を投入している。

今思えば、なんでそんなにケチっていたのだろう?思い出してみる。

ジュースは買わなかったけれど、ブランド物のスーツや時計を買ってたっけな。

休日になると、百貨店や、ショッピングモールをブラついて、見て気に入ったものを高い金を払って買い込み、一人悦に入っていた。

そんなブランド品は今手元に無い。
服はサイズが合わなくなって、人に譲ったか、買い取ってもらったのかもしれない。
他の物は壊れたか、人に取られたか、失ったか定かでないが、とにかく手元に無い。

「結構、いい値段したんだけどなぁ~。」


老師は、「金玉堂に満つればこれを能く守る莫し」と言った。

勝海舟は、「富は泡沫の如く、名は煙りの如し」と読んだ。


「その通りだな・・・。」


そんな、古人の言い伝えや、実体験、1銘柄に対して大量に株式投資を行ったり、FXのシステムトレードを自作して運用してみたり、年を取ったせいなのか、ブランド物や値の張るような家や、車、旅行、その他いろいろに興味がなくなってきた。


ブランド物に目が眩んでいた日々は、なんだか忙しなく、落ち着かなく、毎日必死だった。
それに比べて今は、毎日同じ服を着、コンビニやスーパーで買う同じような物を食べ、同じような繰り返しの日々を送っているが、なんだか心の中は静かで穏やかだ。


これを「余裕」と言うのだろうか?


「余裕」と言えば、お金が有り余る状態だと思っていたが、どうやらそれは違うらしい。

お金や物的な状態よりも精神的な状態の方が「余裕」と言う物の本質を言い表していると思う。

「もちろん、お金は生活するには必要だし、多い方が良いだろうが、それだけでは無いんだよね。」と言うところだ。


しかし、世の中にはそんな事が分からない人等も多い。

先日も上司の J さんに、「この作業にはこれらの道具があれば作業はかどりますよ。」と進言したのだが、「いや、これくらいなら、カッターとニッパーで代用できるから、いらないと思います。」と返された。
確かにこの先、そんな作業が頻発しなければ、いらないのだけれど、ちょっと話を聞くと、かなりの回数作業をしなければいけない様だ。
それなのに必要無いと言う。

僕が進言した道具は、一つ2~3千円位のものでそれほど高くは無いと思う。
しかし他方で、「そんな道具いつ使うの?」みたいな高価(一つ5万くらい)な道具には金を出す。


若い頃の僕を見ている様だ。(そんな高価な物を持っていても、直ぐ壊れたり失くしますよ。)心の中でつぶやく。


父もそうだ。

自分の趣味には惜しみなくお金を投入するが、普段使いの食費や水道・光熱費はケチる、出し惜しみする。

洗濯は、週1回。十分たまってから。
風呂の水の入れ替えも勿体ないから週1回。
外食は高くつくから、どんなに遅くなっても食事は家で取る。

自分一人ならそれで良いのだろうが、僕は抵抗を感じずにはいられない。

(風呂の水が、入浴剤も入れていないのに白く濁ってるってどういう事?)(洗濯したのに、何で臭うの?)


ま、いろんな人がいる。それが地球なのだが、前述の様な人ばかりだと、傍にいる人等も大変だ。しっかり働いているのに、なぜか毎日お金の事ばかりで疲弊してしまうのだから。

お金は生活するのに必要だが、それを上手に使いこなさなきゃ、人生は味気ない物になる。
お金に囚われ、お金に振り回されてはいけないのだ。
お金を貯めたら、より理想的な人になるべく、必要な分だけ使い、生活に潤いや楽しみ、余裕を作るといい。

そのために、「奴隷のように働くのが運命では無い」と自分に言い聞かせ、「お金を貯め込まず、必要な分だけお金に働いてもらおう。」と意識を変えなければいけない。


お金に働いてもらうと言う事はどういうことか?

ズバリ、「投資」

投資をすると、自分の手が離せない状態でも、寝てる時でも、稼いでくれる可能性がある。(損する可能性もあるけれど・・・)


でも、何もせずに貯めてばかりいて、使わずに死んでしまったら、なんのためにため込んでいたのかも分からないじゃない。


貯めて、使って、貯めて、使って・・・、人生は塞翁が馬だ。泣いて笑って、喧嘩して。どちらかに偏らず、何にも囚われずに自由に生きるべきだと思う。




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