「多様性」と「画一性」は紙一重

タイトルの通り、「多様性」「画一性」は紙一重だな〜と僕は今日思った。


現代日本ではSDGsが社会に馴染んできて、それに合わせて、企業理念もSDGsの解決に取り組むようなものに変化してきている。
その中でも、特に日本で重視、いや過度に注目されていると感じるのは「ジェンダー平等」の中での「LGBTQ+🏳️‍⚧️」についての考え方だ。
社会では、一般的に「LGBTQ+の方々を理解するようにしよう!」などと掲げているが、本当にこれは正解なのだろうか。いいや、多様性を尊重している考え方なのだろうか。

僕は、これは多様性のある考え方に見えて、ある意味、「画一性の権化」でしかないと考える。なぜなら、「皆で同じ考え方を理解しよう。そして、この考え方が今の社会では正当なんだ。」と押し付けられているようにしか感じないからだ。僕は別に否定したい気持ちがあるわけではない。しかし、否定するような意見になってしまうだろう。

もちろん、LGBTQ+の方々を理解することは非常に重要だと思う。ストレートの人間が正当である理由もないし、LGBTQ+として生まれた方々が悪いわけがない。しかし、完全に理解することはできないと僕は感じる。なぜなら、一般の人間関係でも、相手を、ましてや自分でさえも完全に理解することなど不可能だからだ。結局、僕たちストレートの人間には、表面上の理解はできたとしても、完全にわかりあうことはできない。そもそも何を以て理解したとするかの定義すら曖昧であるのに、理解しろなどと無理を言うなという話だと僕は強く感じる。エヴァンゲリオンのあるキャラも以下の内容を作中で述べている。

人は他人を完全には理解出来ない。
自分自身だって怪しいものさ。
100パーセント理解しあうのは不可能なんだよ。
ま、だからこそ人は自分を、他人を知ろうと努力する。
だから面白いんだな、人生は。
by加持リョウジ(新世紀エヴァンゲリオン)


じゃあ、理解に努めないのか?
そうとも言ってはいない。本題に戻るが、「理解しろ。理解しろ。」と主張することが多様性を重視していないのではないかということだ。だから、この頃僕は

「多様性と画一性は紙一重」

であると感じるのだ。

わざわざ完全な理解を求めずとも、「LGBTQ+の方々がいるよね。でも、完全にわかりあうことなんてできないんだから、ストレートの人以外にもそういう人がいることも知っててね。」これこそが本当の「多様性」であると考える。


「十人十色」
という四字熟語が存在する。
僕はまさにこの考え方こそ今の社会の考え方を象徴する言葉だと感じる。「右向け右」ではなく、「右向け、どこを向いてもよし」これこそが「多様性における真実」ではないかなと感じる。

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