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不思議夜話3

第三夜

辛い夢を見た。
寒空の中、古ぼけた公衆電話ボックスから電話をしていた。彼女と待ち合わせの約束をしようとしているのだが、返事が重い。随分話し込んでいる。緑色の電話機にうず高く積んだ十円玉の山が少しづつ鼓動を早めて崩れていく。
「じゃ、これからそっちへ行くよ。」
「…ええ、…でも…。」
「近いし。」
「うぅん…。」
電話の向こうで少し首を振ったように思えた。
「でも、ちゃんと話がしたいんだ。」
「え、でも、時間も…、遅い…し…。」
何度も何度も同じ遣り取りを繰り返している。彼女が今にも電話を切ってその場を立ち去ってしまいそうで、息が出来なくなる。信じ合っている繋がりが、実は思い込みと幻想である事を実感させられる瞬間だ。完成間近のジグソーパズルに最後のピースを嵌めようとした瞬間、時間が止まり世界がセピア色に変った。そしてその次の瞬間にはパズルが音を立てて壊れていく。
今、辛うじて二人を繋げているのはこの公衆電話しか無いという焦りが凄まじいスピードでコインを注ぎ込ませた。
「いや、行く!」
僕は叫んで電話を切った。ボックスを飛び出すと、辺りは薄暗がりでぼんやりとして、空には弓張になった月が凍えていた。ここが何処なのか判然とはしない。が、矢も楯もたまらず、目の前に延びる道を走り出した。焦る気持ちが背中を押す。一秒でも遅れると彼女はいない、そんな不安が尚更息を切らせた。鉄道の駅が見えた。何処かのターミナル駅だ。その景色にはぼんやりとだが記憶がある。訳もわからぬままに改札を通り、向かいのプラットホームに渡る陸橋階段を駆け抜けた。
プラットホームには、黒いコートを着た影たちが所在なげに電車を待っていた。肩で息をしながら待ち客の頭越しに今しがた来た反対側のプラットホームを眺める。こちらとは逆に随分な人出だ。
そこに彼女がいた。
いや正確に言うと後ろ姿で確信したのだ。
僕は思わず「あっ」と大声を上げた。
その影が一瞬振り向く。
再び「あっ」と叫んだ。
瞬間、快速電車の銀色がけたたましい音とともにその姿をかき消した。途切れ途切れになる車窓の流れの中に彼女の影を押し止めようと必死に目を凝らした。が、電車が凄まじい勢いで過ぎた後には、もうその影は無かった。それどころか、さっきまで人で溢れかえっていたプラットホームはかき消えて、線路は川になっていた。
十メートル内外の堀割になった都市河川だが橋がない。勢いのない水が情けなさそうに川底を洗っている。左右を見渡しても、川沿いの細い道が浮かび上がっているだけだ。僕は取り敢えず川上に向かって駆け出した。薄ぼんやりとした中で、見覚えのある家並みが見えた。そう言えば、中学生の頃家庭教師をしてもらってた大学生の家が丁度こんな感じだった。それと彼女の家も。
二軒目の扉に手を掛け、入り込むと真っ暗な暗闇だった。人の気配はある。一瞬で”彼女”だと判るのだが姿は見えない。振り返っても暗闇が広がるだけだ。そのうち、足元が揺らぎ流砂のようになった床に足が呑み込まれていく。彼女の気配がゆっくりと遠退く。
「分かってたよね!」
沈み行く身体を捩りながら叫んだ。
「もっと早く言ってくれたら…。」
つぶやくような彼女の声が遠ざかる気配の中で聴こえた。僕の身体から”言葉”が崩れバラバラと落ちていく。流れる床に呑み込まれて胸が押し潰されて行くせいか息が出来ない。
「もっと早く言ってくれたら…。」
微かな風中に消え去るようにもう一度声が聴こえた。焦って伸ばす手は、届かない。

「ああぁ。」
という自身のうめき声で目が覚めた。身体が汗ばんでいた。心臓はバクバク脈打っており、呼吸が荒い。慌てて身を起こした。ぼんやりとした非常灯が寒々と六畳間を照らしていた。回りを見ると、家人が軽い寝息を立てている。
そうか、またあの夢を見たんだと苦笑いした。遠い昔の苦い記憶…。”あの時”に置き忘れた魂の欠片は、何十年経っても”あの時”の中を彷徨ったままで、時折細い糸を辿ってこうして僕を呼び戻しに来るんだなと思った。

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