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不思議夜話8

第八夜

楽しい夢を見た。
季節は初夏で、庭には躑躅の花が咲いていた。梅雨にはもうしばらく時間の余裕が有り、汗ばむものの湿度が低く、爽やかな風が吹いていた。空は高く真っ青で、木々の緑と鮮やかさを競っていた。そんな気持ちの良い午後のことだったと思う。
僕は母親が物干し竿に洗濯物のシーツを掛けている横で、食卓用から庭用に格下げになった椅子に座り漫画本を眺めていた。今とは異なり母親は若く、僕が幼い頃よく着ていた和服に割烹着という姿だったが、不思議な気はしなかった。母親がパンパンという小気味よい音をたてて、シーツの皺を延ばすと、糊の効いた洗濯物のハレの香りが鼻先を撫でてゆく。
大きな伸びをする僕に向かって、今度は父親のズボンを竿に通しながら笑った。
「いつまでマンガ読んでるのかねえ。少しは手伝いでもしたら。」
「あぁ、ふぅーん。」
母親は、生返事をしているだけの僕を見て呆れ顔で洗濯物を干し続けている。
「ほら、お隣のケイちゃんは偉いよ、ほんと。ちゃんとお母さんのお手伝いしてるよ。」
「ああ。」
ケイちゃんというのは、隣に住んでた同級生の女の子だ。赤ちゃんの頃から知っていて、小学校低学年まではよく一緒にいて子犬の兄弟のようにじゃれ合って遊んだものだった。よくある話で、大きくなるに連れて段々疎遠になり、中学に入る頃からはめったに口もきかなくなった。そして、高校の頃にお父さんの都合で転居して消息も途絶えた。ただ、目の前にいるのは、幼い頃のままのケイちゃんだった。襟元に花柄の刺繍の有る白いブラウスに、肩掛けのついた黄色いスカート。赤いリボンのついた麦わら帽子。何もかもあの頃のままだった。僕は漫画を置いて顔を上げた。そこにはじっと覗き込んでいるケイちゃんがいた。その瞳を見ていると、ふいにシャボン玉が思い出されて、
「ケイちゃん、シャボン玉やろう。」
と言った。
そうだ、あの頃二人でよくシャボン玉を飛ばして遊んだ。強く息を吹きかけて沢山の小さなシャボン玉。優しく息を籠もらせて大きなシャボン玉。それぞれのシャボン玉が風に乗って、フワッと浮かび上がってはお日様に挨拶して消えていったっけ。当時、シャボン玉の”素”と吹き口のセットは駄菓子屋で確か十円で売っていた。家でつくる石鹸水よりシャボン玉の保ちが良いので、子どもたちには人気だった。二人で上を向いて吹く。下を向いて吹く。お互いの顔を目掛けて吹きかける。そして、見合わせ大声を出して笑った。その度に大きな、そして小さなシャボン玉が生まれては消えていった。シャボン玉を吹きながら不意に、
「そうだ。私、飛べるのよ。」
とケイちゃんが言った。
「嘘つけ!」
「嘘じゃないわ。飛べるような気がして昨日から練習していたら、今朝飛べたの。」
「じゃ、飛んでみろよ。」
うんと頷くと、突然ケイちゃんが大きく息を吸って平泳ぎのような仕草をした。泳ぐ真似をしただけじゃないかと思ったが、足元を見ると20センチばかり浮いている。ねぇ、と息を吐くと、スーッと着地した。もう一度とせがむ僕に、また大きく息を吸って平泳ぎの真似をしてみせる。するとまた、今度は50センチ程浮いて、吐く息とともにゆっくり下りてきた。
「えーっ、何で。」
「分からないわ。でも、カズくんは平泳ぎが上手だから、私より飛べると思うわ。」
「ねぇ、ねぇ、どうするの。教えて、教えてよ。」
と両手を合わせる僕に、先程見たように大きく息を吸って、身体が軽くなったら水を掻く要領で手と足を動かせという。息は一気に吐くと”落ちて”しまうので、できる限りゆっくりと吐くのがコツだそうだ。2階のベランダから飛ぶと、より高く飛べるよと、自分の家へ手を引いていく。ケイちゃんの家は平屋建ての僕の家より大きくて、2階建てで、彼女の部屋は南側にあった。
ベランダへ出てまず彼女が柵の上に乗って先程の仕草をすると、スッ、スッと空中に浮かんで出た。僕は半信半疑だったが、頬を膨らませたまま手招きする彼女に誘われ、同じようにベランダの柵の上に立った。大きく息を吸う。身体が少し軽くなったような気がして、慌てて一掻きすると、フワリと空中へ出た。何だ簡単じゃないか。ただ、感じとしては「泳ぐ」というより「潜る」みたいだ。スイスイと進むわけではなく、手で掻いた分だけ前へ出る。呼吸をしようと息を吐くとスーッと下がる。また大きく息を吸う。そんな事を繰り返しながら、ズンズンと空へ上っていく。その時突然、オナラをしたらどうなるだろうと考えた。少し意識すると、別にもよおした訳でもないのに、プッとオナラが出て前に進んだ。面白いので大声で笑う。小さな子供は、オナラやうんちやオシッコが妙に好きだ。
「ケイちゃん、オナラでも進むよ、ほら。」
と言って、プッとやった。
彼女は大声で笑って、両手で顔を隠し真っ赤になった。
「やだぁ。カズくんのエッチ。」
女の子にそう言われると、男子はますます図に乗る。プッ、プッ、プッと音を立てながら、右回り、左回り、でんぐり返りと空中で動き回る。その度に彼女はコロコロと笑った。雀が二人の間を飛び抜ける。追いかけてみるが、相手は飛んでるのに、こちらはふわふわと浮いているだけだから、追いつくはずがない。また、二人顔を見合わせて笑った。
眼下では、洗濯物を干し終わった母親が、上を見上げて驚いている。ちょっと自慢げに今度はクロールで泳ぐ姿を見せてみる。ケイちゃんが、さっきのシャボン玉をフーっと吹く。泡のようなシャボン玉がバラバラに弾けて、大空を目指して登っていく。つられて上を見るとお日様が暖かく眩しい。ニコニコ笑いながら両手を広げて、真っ白な雲を抱きしめようとしたら目が覚めた。

目の前には女房の顔が有り、不思議そうに覗き込んでいる。
「助平そうな顔をして笑ってたよ。エッチな夢でも見たんでしょう。」
と睨んだが、先ほどのケイちゃんの真っ赤な顔が思い出されて、あっ、いや、別にと曖昧に答えて身体を起こした。カーテンを開けると差し込む朝日とともに真っ青な空が広がる。タバコに火を着け、ケイちゃんもこの空の何処を楽しく飛んでいたのだろうかと、思い出し笑いをしながらフーっと煙を吐いた。

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