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不思議夜話5



第五夜

奇妙な夢を見た。
その夢は寝苦しさから目を覚ました瞬間から始まった。これも夢の中なのだが、その時からの記憶しか無いので仕方がない。気づいた時は実家の客間の隅に寝そべっていて、目を覚ました後、天井にある豆電球が点っているのをぼんやりと眺めていた。季節外れなのだが、遠く近く、蚊の羽音が耳元にまとわりつく。夜風にでも当たるかと、やおら起き上がってふすまを開けたが、そこは見た事もない長い廊下が続いていた。うちの廊下はこんなには長くないはずと思っていると、随分と先に薄ぼんやりした灯りが見えたので、それを目指して歩いた。鈍く黒光りする板張りの廊下は、昔祖父の納骨の際に訪れた田舎の菩提寺のものに似ていた。そういえば、あの寺の中庭にあった南天の赤が見事だったな、などと思い出しながら歩いていると、向こうから御住職の娘さんが歩いてきた。小学校帰りだろうか、三つ編みにした髪を黄色い帽子で隠し、背中では赤いランドセルが右に左にと揺れていた。四半世紀は経つはずなのに、一度だけ目にしたあの時のままの姿に、お寺の子は大きくならないのかしらと首を傾げた。
通りすがりに、
「ほら、聞こえるでしょう。」
と娘さんの冷たい声が聞こえた。えっ、と聞き返しながら振り返るとそこには誰も居らず、暗くてひんやりとした長い廊下が続くだけだった。はてさて、娘さんは何処へ行ったのかと見渡したが、廊下の左右は深い霧の中のように判然としない。気味が悪かったが仕方がないので先を急ぐことにした。
先程見えていた灯りは、40ワット位の白熱灯でその周りを蝿が唸りのような音を立てて飛び回っていた。さっきの蚊の羽音といい、この蝿といい妙に耳障りな音が続く。電球の下に大きな引き戸があったのでガラガラと開けた。するとそこは、昔よく通った銭湯だった。番台にいつもの通り小銭を置いて中に入る。番台から「へぃ、いらっしゃい」と相変わらずのやる気無さげなオヤジの声が聞こえる。天井には音だけは一人前の大きな扇風機が回っており、その直下の床几では、白髪の老人が湯上がりの汗を腰手ぬぐい姿で乾かせていた。
当時、野球といえば連覇中のジャイアンツで、特に王、長島といえば子どもたちの憧れの的であり、脱衣棚もその背番号である1番と3番は取り合いになっていた。私は天の邪鬼のせいか、パ・リーグ、それも地元の南海ホークスの野村克也のファンで、その背番号の19は、いつもといって良いほど”空いて”いたので、棚を争った記憶はほとんどない。その脱衣棚の前で衣服を脱いでいると、先程の老人が、中庭に続く縁側の端に置いてあるマッサージ機を操作していた。慣れないせいか、グォン、グォンと低く不快な音がする割には、モミ玉が動いている様子がない。
「上手くいかないんですか。」
と尋ねたら、
「変な音するよね。ハンドルが噛み合わなくってさ。」
と申し訳なさそうに返した。
「少し見てみましょうか。」
「悪いねぇ。」
と言うわけで、その老人と入れ替わって座り、横についている上下ハンドルを力を入れていじってみた。子供の頃、祖父が「ここのマッサージ機はよく10円玉をよく喰う」と言ってぼやいていたのを思い出した。時折、ハンドルとモミ玉のギアがズレて空回りし、直しているうちに時間切れになって止まってしまうらしい。その割には、番台にクレームを言うわけでもなく、子犬に餌でもやるように次の10円を呉れてやっていた。少しギクシャクしたが、2、3度ハンドルを上下するとカチッとはまって音も落ち着き、スムーズに動くようになった。
「直ったみたいですよ。」
顔を上げるといつの間にか老人は消えていた。便所へでも行ったかと待ってみたが、主人をなくしたマッサージ機が暫く軽い唸りを立てていた。そしてやがて何事もなかったように動かなくなった。仕方がないなと、腰に手ぬぐいを巻いてガラス越しに湯気で曇る風呂場へ向かった。
ガラス戸に手を掛け大きく開くと、ガランとした湯船に先客がひとり浸かっていた。
掛り湯をして湯船に浸かると、身体がピリピリとした。「電気風呂」という仕掛けで、子どもたちには不人気だったが、高齢者は身体にいいと言って、好んで浸かっていたものだ。先客がタオルを頭に近づいてきた。
「今日はよく"電気"が効いてるね。」
「そうですね。いつもよりピリピリしますよ。」
「電圧でも変えたみだいだね。」
「そうですか。」
先客は、ザッと音を立てて立ち上がると、様子を見に行こうと誘ってきた。そういえば釜炊きの場所は裏にあるようだが見たことがない。面白そうなので付き合うことにした。角刈りにしたその客が湯屋の端にある小さな扉を開けた。ゴゥと音がして外からの風が生暖かい湯気を巻き上げた。慌てて先客に続くと、いつの間にか、そこは実家の勝手口で、その西側に広がる川べりの一体が見え、旧小学校から大きな炎が上がっていた。
「大変だ。火事だ。」
と叫んだが返事がない。火は衰える事なく、ますます燃え盛る。距離は200m程度有るはずなのに、火の勢いが強いのか顔が火照るほど熱く感じる。風が起こるのか地鳴りのような音がしてどんどん火が広がってきた。火はまたたく間に付近の家屋を飲み込み、ますますゴゥゴゥと地鳴りのような大きな音を立てている。
「119、119。」
と大声を出しながら庭先に飛び出したら、態勢を崩して裏庭の三和土に身体をぶつけてしまった。
痛い、と思ったら、自室のベッドから床に落ちていた。ベッドから落ちたのは、小学校に上がった時初めてベッドで寝んた時以来の事で、格好が悪くて人には話せないなと思いながら体を起こした。しこたまぶつけた肩を庇いながら周りを見回したがいつもどおりで特に何の変化もなかった。
すると、隣で寝ていた家内が目を覚まして「大丈夫?」と聞いてきた。ああと答えながら、続けて奇妙な夢の話をしかけたら、ズーンという嫌な地響き音がして、部屋がひっくり返るように揺れた。
1995年1月17日、早朝のことだった。


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