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クスムカングル峰北陵 登攀記(ネパール・ヒマラヤ 6,370m)

(2023.5月「Alpinist 82」掲載記事原文抜粋に補足追記)

はじめに
 アメリカの山岳誌「Alpinist」から、クスムカングル峰(ネパールヒマラヤ、標高6,370m)の北稜クライミング記を寄稿してほしいと頼まれることになりました。その登山は、ずいぶんと前(約32年前、当時22歳)のことです。意外なことで少々驚きましたが、快諾いたしました。なにせ、Alpinist ですから。

 記憶というのは、「事実」とは微妙に異なるもの。自分の都合によって、ひっそりといつのまにかに編集されていくものだそうです。忘れっぽい私には、その自信が十分にあります。懐かしい山行報告書(帰国後は皆多忙だったので主に私が編集、制作しました。)に目を通しながら寄稿文をつづっていきました。

 あらためて想うのは、クスムカングル峰北稜のクライミングは、私にとって大切で重要な経験であったということです。それは間違いありません。「Alpinist」には、当然ながら字数制限があるし、編集者の意図もあるでしょう。ならば、(ちょっとしたいたずら心ですが)補足の書込みをしてみようと思ったのでした。今の自分にとって、それが「どういう登山だった」のかを考えながら。(2023.5 馬目弘仁)

クスムカングル北稜 帳面の右上しているリッジ。その左側がKyashar峰北面

当時、2人の大学生と私(大学を卒業したばかり)という、20歳代の若手のトリオは、「アルパインスタイルでヒマラヤの山を登ってみたい」という志望をもち、日本国内でのアルパインクライミングに取り組んでいました。
メンバーは、浅野さん、作道さん、私です。浅野さんは(れっきとした医師でしたが)医学部に残って研究生として在学していましたので、自称〝学生〟と言っていました。作道さんは、1つ上の先輩でしたが、留年と休学でまだ学生でした。私は3年生の時に半年間(モンブラン山群でクライミングするために)休学していたので、9月に卒業していました。遠征出発時点で、社会人だったのは二木さんだけです。二木さんは登山活動が出来なくても(ヘルニアの手術後すぐだった)是非ヒマラヤに行ってみたいということで、BCマネージャーとしての参加でした。当時の日本は、バブル絶頂期でしたので、なんとなくそのあたりはのんびりしていたのです。

『私たちは、ヒマラヤ登山の経験も、お金(時間はあったのだが)もなかったので、必然的にトレッキンパーミット・ピークのなかから目標を選ぶことになった。とにかく、アルパインクライミングがしたかった。簡単に歩いて登れるピークでは満足できない。かといって無謀な挑戦をしてもいけない、と考えていた。ガイドブック(THE TREKKING PEAKS OF NEPAL)には、クスムカングル峰は、トレッキングパーミットの中でも最も難しい山の一つだと書いてあった。その北稜は、ダク・スコットが初登。まずそこが気に入った。彼はすべてのクライマーにとってレジェンドだ。(北稜は彼らにとって、高度順化のために立ち寄った程度のものかもしれない。彼らはセントラル・ピークには行かなかった)

1985年4月、日本人のHiroshi Aota が北壁をアルパインスタイルでソロクライミングし、北稜を下降している。彼に同行していたTakao Kurosawa から北稜の写真をもらうことができた。それには黒々とした岩稜が写っていてとてもカッコ良かったのだ! 彼は「ヒマラヤ初体験の若者にとって、やり甲斐のあるルートであることに間違いない」と言ってくれた。北稜のルートグレードは、TD+、私たちでも登れる可能性はある。それで私たちは決意することにした。それと、1980年代には日本の若手の4チームほどが挑戦して失敗していたのだ。「アルパインスタイルでスマートに登ってやろうじゃないか」という野心もあったことを告白しておきたい』

クスムカングル北陵ルート概念図

隊のリーダーは、当然ながら最年長の浅野さん。彼は、責任感の強い頼れる兄貴的存在でした。今思うと感謝しかありません。相当の重責を背負ってもらったなあ、と。しっかりしたリーダーシップでまとめてもらっていたのに、作道さんと私と言えば、パートナーシップを優先する性格だったこともあってずいぶんと困らせることが(多々)あったはずだと反省しています。
この遠征隊は、私たちの所属する社会人山岳会・松本Climbing Mate Club の30周年記念事業のイベントの1つにもなっていましたし、社会人として自立していないトリオが結成した隊ということで、関係者各位にもいろいろプレッシャーがあったのでしょう。私たちは、家族に手紙(まるで遺書のように)を書き残すことを促されました。そして遠征登山出発当日、可能な限り家族に集まってもらうように、とも。成田空港のラウンジで、家族の顔合わせ会のようなことがあったのをおぼえています。もし遭難があったときに、それぞれの家族間で揉めないようにとの配慮だったのでしょう。私の両親もわざわざ福島のいわき市からやってきてくれました。残念ながらその様子の記憶は全くありません。私自身がとても緊張していたのでしょうね、きっと。
今では少々大げさだったかなと思わなくもないですが、あの当時ヒマラヤ登山に行くということは、人生を左右するような大きなイベント、「冒険」に出ていくのだと本気で考えていたのでしょう。そう、なにせ私たちは若かったのですね。

 『1991年、10月1日にBC(4,160m)設営。10月5~7日で、北稜の5,300m地点までを、偵察と高度順化を兼ねて往復した。12日にBCを出発して北稜のスタート地点にあるABC(4,600m)に入り、13日からアタックをスタートさせた。所持したプロテクションは、カム2個(キャメロットの№1,2)、ロックピトン30枚、スノーピケット1つ。今考えるといささかバランスを欠いていると思う。この登山のために私は初めてダウンジャケットを買った。ダウンのスリーピングバックはお金が無くて買えず、先輩からの借用品だった。金は無くてもモチベーションは高かったのだ。私たちは、よくがんばったと思う。BCに入ってからずっと晴れ、天候も味方してくれたことに感謝している。

1991年、10月16日、AM8:20、無風、晴れ。3ビバークを経て、クスムカングルの北稜の頂上に立つことが出来た。大いに感動したものだ。はじめてのヒマラヤ登山を、このような素晴らしいルートを登り、しかもピークに立てたことは本当にラッキーで幸せなことだ。

頂上にて。向かって左側が私、右側が作道


当時の日記には、「頂上はかなり狭いスノーリッジだ。私たちの周りすべてがヒマラヤだ。360度見渡す限りの山々。〝ヒマラヤ〟神々の統治するところ。祈らずにはいられない。」と書いている。頂上で感動に浸っているとき、一羽のカラスが飛んできた。僕たちの目の前を周回し、しばらくしてBC方面の谷間に消えていった。苦労して登ってきた僕たちは、あっけにとられたものだ。ヒマラヤでは、生物までがグレートなのだろう。頂上からの長い同ルート下降について、ナーバスになっていた僕らは、カラスのおかげで少しはリラックスすることができたことを覚えている。頂上からBCまでの標高差約2,100mを、1ビバークで下降して無事に帰着することが出来た。
 
BCからのバックキャランバンの途中、北壁にトライするというスペイン人トリオとすれ違った。私たちの登頂後から急激に寒くなってきていて、まるで冬が到来したかのようだった。彼らの無事を祈りながら下山したものだ。彼らとは一週間後にルクラのエアポートで再会することになった。ひどい寒気により、1人が両手を凍傷にやられていた。Asanoは医学生であったので、応急処置を施し、私たちのダウンソックスを保温カバーとして巻いてあげた。水泡におおわれた両手を見るのは初めての経験だった。私たちには大きなショックだったし、ヒマラヤとは危険なところでもあると再認識させられた。私たちは運が良かったのだ。
 
クスムカングル峰北稜のクライミングから、約30年が経った。私は、あれから2~3年に1回のペースでヒマラヤ登山を続けている。その基礎になっているのが、この登山での経験であったことは間違いない。アルパインスタイルで、自分たちの情熱と登山のスキルを存分に発揮して、頂上に立ち、無事下降することができたのだ。幸せなことだ。

その後、私はとなりの山、Kyashar峰(6,770m)の南ピラーを登りにくることになった。(2012年、南ピラーの初登攀)クスムカングル峰には、「縁」というものを感じている。
「運命の繋がり(連鎖?)」とでも言えばよいのだろうか。』

 クスムカングル北稜を登った際に見えていたのは、Kyashar峰(キャシャール)の北面になります。当時は、Peak43と呼ばれていて、未解禁の山でした。かなり険しい山容でした。いずれ、あんな山にも挑戦してみたいものだと思ったものです。「クライミングジャーナル」という当時の山岳誌に「問題の山」という連載があって、それに南面の写真とともに紹介されてもいました。2015年には、その近くのKangtega峰(カンテガ、標高6,779m)の北壁にトライしました。たしかにこの周辺山域には「縁」を感じます。

文責:馬目弘仁
2023.5.31

Climbers Story Vol.1 "The Nima Line" - The North Face Japan

キャシャール峰(6760m)南ピラー 初登攀 Date:2012.11/6~12


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