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ある研究者の手記

 私は、その話を山深い集落にある老翁から聞いた。三十年前の事だ。

 彼は、昆虫の研究で訪れた若かりし私をもてなしてくれた。私は自身の研究において非常に貴重な(これは私たち研究者にとってとても大切なことなのだ)種の採取に成功した。浮足立ったのはこちらだけでなく、先方も手土産にした酒の味にずいぶんと上機嫌であった。

 それは良かったのだが、問題は老翁の長話であった。

 長者である彼の家は裕福で、酒の肴と言わんばかりに古い書や骨董の謂いわれを語り、次第にこちらが口をはさむのを許さなくなった。

 厠の場所を尋ねると、案内しながら庭の自慢までする始末。妻が死んで久しく話す相手がいないというにしても、度が過ぎている。呆れながら応接間に戻ろうとしたところ、敷地の中に、不自然な建物を見つけた。この植栽がどうのと話しつづける赤ら顔へ向かって、あのお堂のようなものはなんですか、と小さな屋根を指すと、黙って部屋へ這入ってしまった。

「あんた、気づきなさったね」

 障子を開けると、老翁はにやにやと笑みを浮かべて座っていた。何をです、という私の問いには答えず、若い男には聞かせなくちゃならん、聞いたうえで衣を一枚燃やせと言う。

 訳が分からないが、かかる山奥に伝わる習わしの一端に触れたと見えて、大人しく言に従うことにした。老翁は赤ら顔に神妙な表情を浮かべて語り始めた。

 それが、『おひい堂』の所以である。

 昔、この集落には、おひいさまと呼ばれた長者の娘がいた。

 娘はたけという名で、働き者であった。愛想も良く、村の娘とは思えぬほど目鼻立ちが整っていたので、皆は「お姫様(おひいさま)」と呼んだのである。

 さて、十三の年に城へ奉公に出たあと、たけの様子がおかしいという噂が出回った。ある男物の衣を掴んで離さないというのである。

 父の長者どのが里へ下がらせてみると、いかにも噂に違わぬ状態であった。たけは、その衣を大切に触れてみたり、自らまとっては、「あたしの大切なお人」と誰かを恋うような様子。

 他のことにはすべて関心がないが、下女が衣を取り上げようとすると、癇癪を起して手が付けられなくなる有り様であった。あわれ、皆に愛された里一番の器量よしは、見る影もなくなっていたのである。

 父の長者どのと、たけのおっかさんは苦悩したそうな。たけの持つ衣は当世の若者に流行った柄で、どこの誰のものとも分からない。いくら問いただしてみても、答えぬか、聞いておらぬかのどちらかで、そうかと思うと癇癪を起したり、泣いたりしている。

「恋に狂うたのじゃ」

 村の衆は口々に言った。若殿に見向きもされなかったのではないか、とか、あるいは誰かにひどく虐められたのではないか、とか、噂が噂を呼び、姿かたちすら変え、長者どのの耳に届くころには聞くに耐えぬものとなっていた。

 父の長者どのがやつれた位だから、おっかさんの胸の痛みようは筆舌に尽くしがたく、床に伏せるようになった。そのことがまた噂をよび、やれ長者一家はみんな病になったの、やれたけとおっかさんが死んだという話まで飛び交うものだから、長者どのの怒りはやがてたけへ向かうようになった。長者どのにとって、たけはもう親不孝者でしかなかったのだ。

「お前はここから出ていけ」

 訳も分からぬたけに長者どのは告げた。そうして、そばに若い下男がいたので、町へ連れ出すふりをして、山奥で絞め殺して埋めるように言いつけた。下男は真っ青になったが、長者どのに言われてはどうにもならない。

 夜更け前、たけは下男に連れ出された。

 陽がのぼると、長者どのは村の衆にたけは丈夫であったから城へ戻したと告げた。何も知らないたけのおっかさんはその言葉を信じてはいなかった。

 さて、下男に連れ出されたたけは、静かなものだった。衣さえ奪わなければ、ただの物憂い娘だったのだ。

 夜明け前の山を登り、奥地まで進んでも静かなままで、かえって下男は不気味に思った。こんな様子は、かえってかつての愛らしい様子を思い出させて、ついに下男はたけを殺せなかった。沢のそばに小さな小屋を建てて、そこにかくまうことにした。

 たけの髪を一束切ったものを印にして長者どのに持ち帰ると、それを見たおっかさんはたけが死んだと思い込み、なげきのあまり死んでしまった。その時にあふれ出た涙が川になったというので、集落のそばの沢には姥沢うばさわという名前が付いたのだという。

 月日は流れて五年、たけはすっかり年頃の娘になった。

 たけの衣は、主人の身をおくるみのように包んだり、粋に着流したり、雑に羽織られたり、また執拗に撫でられたりするうち、すっかりぼろきれも同然になってきた。下男には、そこから時折のぞく肌の瑞々しさが耐えがたくなってきた。

 思い切った下男は、ある日たけの着物を奪い取ると、それを着て

「あなた様の探している男はここにおりますぞ」と言った。

 下男は、たけの恋うた男が何者であれ、5年も世話した自分は当然受け入れられるものと思っての言葉だったが、たけは激怒して、

「さにあらず! お前は違う、お前だけは違う」

 とわめくので、頭に血がのぼった下男は、結局、たけを絞め殺してしまったそうな。

 さて、この男は小心者で、そのまま知らないふりも出来ずに、里で出くわした村の者に訳を話すとあっという間に姿をくらましてしまった。
 駆けつけた村の衆はたけを埋葬し、小屋にあった諸々を火にくべたが、件の衣だけは燃えなかった。

 気味悪がった人々はお堂をたて、たけの御霊を祀ったということである。

 たけの首にはあざが残っていたから、村ではその後、首にあざのある子が生まれると、おひい堂の土を首に塗り、若者の衣を納め、前世の因縁が持ち越されぬよう祈願したという。そうするとそれが供養となって、おひいさまが金持ちにしてくれると信じられているということだ……。

「そういう謂れがあるんですか」

 そうとも、と老翁は返した。
 だがな。忘れちゃいかんのが、これはある一枚の若者の衣が為した禍なんだ。そして、おひいさまを殺したのも若い男。

 よその若い男がおひい堂に目を止めたら、村に災いがあると言われてる。それを防ぐために、あんた、おひい堂の前で服を一枚焼きなさい。ちゃんと燃え尽きたらそれでよし、燃え残ったら……

 老翁はそれ以上は続けなかった。言外に含むと言うより、酔いが回りすぎてものを言えぬ様子だった。

 続くはずの言葉を思うに、面倒に巻き込まれた感は否めない。だが、自分は請負い、朝日の差し込み始めた時間におひい堂の前でシャツを一枚燃やした。

 シャツはあっさりと燃えた。当然だ。油をかけて燃やしたのだから。

 ただ、それがボヤ騒ぎになって、村中から人が出てきたのには驚かされた。

「やだよ若い先生、そんな言葉に騙されるなんて」

 あの長者さんは昔、跡継ぎにもらわれて来たけど結局独り者でね、寂しいのかたまに変な話するんだ、そういって駐在さんは呆れていた。

駐在所から出てきた私に、老翁は妙な顔をして

「お前じゃあ無かった様だ」と呟いたきり、二度と見まみえることはなかった。

 とどのつまり、私はまったくあの話を信じていなかったのである。学問に生きる身には信憑性を感じ得ず、どうして見てきたようにものが言えようかと一笑に付すのみであった。

 だが、真偽はさておき、窮地は脱したようである。おおかた、あの話は山深い地に働き手の男をとどめる方便だったのであろう。さもなくば、どうして若い男に的を絞ろうか?

 後日、この件を知人の記者に話したが、さっそくのりこんだ中年の彼にはただの氏神様だと言い張ったとのことである。

 しつこく食い下がった彼の一件は相当煩わしかったようで、集落はよそ者の受け入れをやめてしまった。開発の波にも乗れなかった村は、年々廃れていき、今はダムの底に眠ると聞く。

この村の記憶は、静かに歴史の行間に消えていくのだろう。しかし、かくも切実な一集落の記憶を、ただ忘却に委まかせるのも口惜しく、30年の時を経て手記にしこの事象の採取とする。

私は当時の老翁の年に近づいた。研究に生きた私は彼ほど豊かな暮らしをし得なかったが、文字通り、かの因果に袖を引かれずに済んだわけである。

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