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「老い」と文学について考えた。

数年前に70代の親が病気をし、入院からの介護保険申請やら運転免許返納やら、それに続く日常的なケアによって、「老い」というものを急にリアルに感じることになった。
それはおのずから、40代半ばを過ぎた自分の身にも近しいものとなっている。
最近、20年前のじぶんの写真を見る機会があって、現状(ほうれい線くっきり、染めても染めても白髪が増殖……その他いろいろ)に衝撃をうけた。街で中学生や高校生を見かけると、そのみずみずしさにうっとりし、若者が集団でスポーツとかをしている姿を見てしまった日には、もう涙腺崩壊である。これまで年齢をあまり気にせずに生きてきたが、老化現象ってこういうことか、と実感する。

そんなこんなで、このごろの関心事は「老い」なのである。
「老い」について記された作品や文章にも、すーっと寄っていってしまう。
たとえば、佐野洋子のエッセイ。

 日本は平和で素晴しい。
 九十過ぎのじいさんが冬山に死にものぐるいで登ったり、海の中にとび込んだり、鉄棒で大車輪をやったりする。
 そして年齢に負けない、と大きな字が出て来る。
 私はみにくいと思う。年齢に負けるとか勝つとかむかむかする。
 年寄りは年寄りでいいではないか。
       (佐野洋子「年寄りは年寄りでいい」『問題があります』)


佐野は、みずからのことも含めて「老い」とか「病気」についてエッセイに多く記している。その語り口の痛快なこと。大好きである。「年寄りは年寄りでいい」というこの大いなる肯定に、思わず喝采を送りたくなる。

こんなくだりもある。爆笑だし、なんかしみじみとしてしまう。

(前略)私はブス故にひがみっぽい人格になっている事を忘れて、力弱く我が身をはげまして一生が過ぎようとしている。そして、しわ、たるみ、しみなどが花咲いた老人になって、すごく気が楽になった。
 もうどうでもええや、今から男をたぶらかしたりする戦場に出てゆくわけでもない。世の中をはたから見るだけって、何と幸せで心安らかであることか。老年とは神が与え給う平安なのだ。あらゆる意味で現役ではないなあと思うのは、淋しいだけではない。ふくふくと嬉しい事でもあるのだ。
(中略)
  日本中死ぬまで現役、現役とマスゲームをやっている様な気がする。いきいき老後とか、はつらつ熟年とか印刷されているもの見ると私はむかつくんじゃ。
           (佐野洋子「出来ます」『神も仏もありませぬ』)

その佐野洋子のパートナーだったのは、詩人の谷川俊太郎さん。
谷川さんと、同じく詩人の高橋睦郎さんの対談が、「文学界」2021年5月号に載っている。題して「雪のように溶ける詩を目指して」。
今年の12月で谷川さんは90歳、高橋さんは84歳になる。おふたりとも昭和から現在にいたるまで第一線で活躍するレジェンドだ。高橋睦郎さんが駆け出しの頃、三島由紀夫から直接会いたいと電話がかかってきて交流がはじまったというエピソードは、神話のようである。
83歳の高橋さんは「僕はまだ自分がどこか枯れていないと感じている」と言う。これから老いていくのにともなって「どういうふうに自分が、かつ作品が変わっていくのかは(中略)不安でもあり楽しみでもあります」。いっぽうの谷川さんは「僕はもうずいぶん前から自分の老いを意識していますね」と語るが、谷川さんほどTシャツにジーンズが似合う89歳はいないよ、とツッコミを入れたくなる。
おふたりの話はひじょうに明快で知的(古典の教養についてとか、デタッチメントについての部分がとても興味深かった)で、どきどきする艶めかしい発言もあって、刺激的である。屹立した世界をもつ80代の文学者ふたりが、たがいに敬いあっている様子が見てとれるのも、なんとも素敵。そんな対話に、ふと「老い」ってなんだろう? と立ちどまってしまう。

先日の地震(震度5弱)で崩れた家族の本のなかから、吉本隆明『老いの幸福論』(青春出版社)が出てきた。なんてタイムリーなタイトル! こういうことがときどきあって、本が呼んでいる、と感激する。
吉本隆明は、たいへん申し訳ないがちゃんと読んだことがない。昭和のインテリ若者が、その著作の内容をまったく理解できないにもかかわらず、大事に小脇に抱えていたというのが、わたしの吉本隆明のイメージ。あとはばななさんのお父さんということである。
であるから、吉本隆明が「老い」について書いていたとは知らず、へええ、と思いながらぱらぱらと読んだ。ぱらぱらと、というのは、直感としてどうもじっくり読む気にはならなかったから。
わかる部分とそうでない部分がある。そうでない部分で記憶に残ったのは、「老後には勉強するな」というような主旨のところ。たとえば年をとってから『源氏物語』を原文で読むなんていうのは、無駄だからやめたほうがいい、と吉本は言う。でもいまの世の中、老後に古典を学びたいという意欲をもつ人がたくさんいらっしゃるのである。
わたしは実際にそういう場面をずっと見ていて、古典を学ぶことで得られる豊かな時間があると実感し確信しているので、これは吉本の論にはどうも同意できないなあと思った。たぶん、吉本が追究する「古典の勉強」と、一般の方がもとめる学びには乖離があるんじゃないか。「知の巨人」であるところの吉本と、一般の勉強とはレベルがちがうのだろうなあと思ってしまい、この本は直感通りさらっと読んで終わり。本が呼んでくれたのに、ごめん。

江國滋の文章は、刺さった。(こちらは江國香織さんのお父さん。)


 人間の「老い」というものの姿を直視することはすこぶる勇気を要する精神作業だが、その勇気をもつことがほんとうの<敬老>の第一歩なのである。敬愛したくても、とてもじゃないけどそんな気になれないというのが、老いというものの本質的な実相であり、長寿を祝うどころか、早く死んでもらいたいとさえ思うような、そういう悲惨な状態をハッキリ認識した上で、なおかつ老人を見捨てないという忍耐が、老人問題のすべてである。
           (江國滋「敬老の日に」『日本の名随筆34 老』)

強い表現があるので、「えっ」と思う方もいるかもしれない。しかし、現代日本での「老い」の問題とか課題を考えると、「悲惨な状態をハッキリ認識した上で、なおかつ老人を見捨てない」という、「覚悟」とも言えることは、とても重要に思う。この文章が書かれたのは1980年代ではなかったか(正確なことがいま分からないのだが)と思うが、もうずっと長いこと「老い」は日本社会のテーマなんだなあとあらためて痛感してしまう。

「見捨てない。」
なんか妙に印象的ことばだなあと考えていたら、最近の新聞で小川洋子さんの講演の記事にも登場した。
大阪文学学校主催のオンライン講演会で、小川さんは「文学」についてこう語ったという。

「(前略)理屈で説明できないものを見捨てないですくい上げる。それが文学じゃないかと思うのです」                    「人間はみな、どうにか社会生活がスムーズに進むように、アブノーマルや狂気、愚かさや妄想を抱え、もだえ苦しみながら生きている。私は、そこを小説として読みたいし、書きたいと思います」
  (「小川洋子さんが語る文学」「産経新聞」2021年4月29日(木)付)

これを読んで、もだえ苦しみながら生き、だれもが老いて死んでいく生き物であるところの人間には、やはり文学は必要だな、と確信した。