犬がいない

 隣の家で飼われていた犬はいつの間にか死んでいたらしい。吠える声が聞こえなくなって初めて意識した。
 葬儀等の都合でご近所付き合いで「人間」の死は語られるものの「ペット」の死はあまりアピールされないものだと思う。
 そういえば、と考えてみれば隣の家の犬は私の暮らしの一部に多少なりとも含まれていた。
 隣家から聞こえる躾の声。それは犬が愛されていたことの証左。私がポストに届く郵便物を見ようと外に出ようものなら身を乗り出してこちらを見つめるラブラドールレトリーバー。犬が苦手な私が玄関にいそいそと戻るまでハァハァと息をしながら見つめていたラブラドールレトリーバー。犬が苦手な私は吠えられるのをとても恐れていた。この文章を打ち込んでいて気づいたのは、玄関から外に出て隣家の犬の存在を確認するまでが私の「外出」だったのかもしれないということ。
 この令和の時代に『隣組』という単語を使うのか、と思った私と「隣組制度がバリバリ生きているくらいの田舎だから仕方ない」と語る私が共存するのはまた別の話。それはそうとして、ご近所付き合いが密接なこの地域では人間だけでなく飼っている動物の動向も話の種になるという事実。現にラブラドールを飼っていたのと反対側の隣家が新しく買った仔犬のことはしばらく「可愛いわねぇ」と語られていた。このコロナ禍において他所との会話が減ったことで隣家の犬の死は「誰にも触れられることなく過ぎてしまった事象」になってしまったのかもしれない。
 犬がいなくなったことで少々静かになってしまった隣家に対し、我が家には猫が増えて毎日運動会。きっと猫の動向を叱る声は隣家に筒抜けであろう。
 
 さて、何故このような文章を認めたかというと。現在二〇二〇年九月、大型と言われる台風一〇号(Haishen)の襲来が危惧されている。
 犬がもし生きていたら、隣家は彼を連れて避難したのだろうかと思っただけの話。もし我が家も避難する事態になったなら、猫三匹の受け入れが可能な避難所などあるのだろうか、いやない、と思ったその反語の勢いだけでこの文章を書いた。
 猫を受け入れてくれる場所があるといいなぁなどと思う。猫飼いになって少なく見積もっても五年は経った、自分の命より猫の命を優先する気持ちは誰かに理解してもらえるだろうか。
 
 まあそもそもの前提として、この隣組一帯が新築なり改築なりでわりと新しい住宅が多く、我が家が一帯最古のレベルの荒屋であることを補足しておかないとならないのだが。築四〇年超とリフォーム後五年未満では状況が全然違う。
 我が家、台風で壊れないといいんだけど。