それでもやっぱり君が好き。
七輪を買った。
毎日ひとり、庭で焼き鳥を焼いている。
うちの庭には、大きな松と、桜と、銀杏の木が立っている。
今の時期は、葉桜と山藤の御二方が際立って美しい。
七輪をするときは、いつも17時から18時の夕暮れ時に炭を炊き始める。
すると徐々に陽が沈み、薄暮、黄昏、時の移り変わりを肌で感じることが出来る。
日が暮れると音が鮮明になり、明るい時よりも賑やかにすら感じる。
マシュマロを焼き始める頃には、辺りはもう真っ暗で。
昨日は、星が綺麗だったなぁ。
そんな風に、おひとりさまを満喫して気が付いたことがある。
「一人じゃないんだな」
「孤独」とか「ぼっち」とか、日本では社会問題にもなったりしていて、私もどちらかと言うとその傾向は強くて。
独りで居る方が性には合っているんだけれど、何故か、時たま、言い知れぬ淋しさに襲われることがある。
正に「こころの渇き」です。
これは、誰かと触れ合うことでしか満たされないんだと思ってた。
だけど、それは違ってて。
他者って、「人間」のことじゃ無かった。
「人間」は他者だけど、他者は「人間」じゃない。
鳥も、森も、星も、月も、あの子も、総じて他者。
所謂『衆生』だったんです。
だから、庭で自然に囲まれて食べるご飯は美味しかったんだ。
一人なのに、こころが満たされたんだ。
自然は私の為に動かない。
そこに在るだけ。
それを私が勝手に悦んでいる。
その関係が、とっても好きなんです。
「誰かの為に」「利他の心を」
そんな言葉が持て囃される今日ですが、正直怖い。
だって、人間にそんなことは出来ないから。
「誰かに喜んで欲しい」も「そうすると自分が心地良い」を下敷きにある心で。
それを自覚しない「利他」は本当に恐ろしい。
望みは望まないこと
僕の知らないうちに 君の為になれること
って、BUMP OF CHICKENの藤くんも歌ってた。
あるがままの、本来の姿はきっとそうなんだ。
私の為に咲いたわけではない花を見て「美しい」と顔が綻ぶような、そんな関係が。
なのに、人間同士そうはいかなくて。
なかなかどうして「そこに在るだけ」を認められない。
+αの利を求められてしまう。
淋しい
きっと、社会を回そうとしたら難しいんだろうね。
やらなきゃいけないことや、守らなきゃならないものが増えるから。
だけど、だから、宗教は変わらずに在るのでしょう。
社会に属さず、あるがままを認め、存在の尊さを説き続けるんだ。
そうして、いつもじゃなくて良いから、息抜きとしてのこころを遺しているんだと思う。
他者を愛せると、世界を愛せる。
世界を愛せると、幸せに想える。
難しいけどね。
それでも「君」と呼べる誰かが在る限り、幸はそこに在る。
ありがとう、だいすき。