『陰翳礼讃』
こんばんは。
台風ですね。
京都は雨も降ってないし特段風も強くないのでそんな実感まだ全然ないんですけれども、みんなが「台風来る」「今回のはヤベーぜ」って言っているので、そうなんだなぁと思ってます。
本日東京の三軒茶屋にて開催予定だったイベントも、台風の影響を考慮して延期とさせていただきました。
中止ではなく延期ですので、ご都合の良い方はお越しくださいね。
詳細は追ってご連絡させていただきます。
とまぁ、そんなこんなで予定も無くなったので、今日は一日庭にラベンダーを植えたりカモミールを愛でたりしていました。
晩御飯にはちょっと時間をかけた牛すじ大根を作ってみたりして、「のんびりだぜ」と、みっくちゅじゅーちゅさわーの口を開けたあたりでnoteのことを思い出したわけです。
のんびりじゃなくなった。ちっ。
回らない頭でお届けします。
ひさしぶりやけん、やばい。くる。ぐるぐる。
今日は、眠いしお腹もすいたので手短に。
先日お招き頂いたお寺でご住職さまとお話をする中に、こんな会話がありました。
「お寺の内装も時代に合わせて変えていかなければ」
「照明にはこだわりたい」
そこで思い出したこと。
以前、声明の先生に伺った「元来日本の照明に上からの光というのは存在しなかった」というお話。
なので、仏具も下から照らされて美しく見えるように作られている為、現代の日本の照明下ではその本質が発揮され辛いのだと。
目から鱗、納得です。
そもそも、日本は「光」よりも「影」に対する見識が深い傾向にありました。
言語としてそれが認知されたのは谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」以降ですので、割合新しい風潮かとも思われがちなのですが、そうではなくて。
それを表現する言葉は無くとも、概念自体はかなり古くから存在していたのだろうと思います。
と言いますのも、真宗では阿弥陀如来を「光」として表現する教えが多く残されているからです。
「阿弥陀さまが発する光」ではなく「阿弥陀さまが光」なのです。
親鸞聖人も、その著書の中で「この如来は光明なり」と言い切られております。
やもすれば、「え、それ影じゃなく光じゃん」とお思いかもしれませんが、そうではなくて。
ここより読み取りたいのは、光を「扱うもの」ではなく「受け取るもの」とした日本人の概念です。
「如来の光に照らされることで己のすがたを知る」
法話の席でよく語られる言葉です。
これすなわち、陽の光に照らされて現る影のことです。
影は、己の行いでどうとでも変えられます。
けれども光は、無理です。
在ることは分かる。
けれど、その姿は分からない。
触れもしない、捉えられない。
捉えられるとしたら、何かを介した後の影としての光のみ。
それは己の力の及ばぬ計り知れない存在で、甘んじて受け取るしかない。
日本人には、そんな概念があった。
だからこそ、親鸞聖人は阿弥陀如来を「光明」と表したのでしょう。表せたのでしょう。
すてき。
影を見て光を想う日本人の感性は、世界へ誇れる宝だと思います。
また、電灯の普及時代にこの本質へ立ち返り「陰翳礼讃」という言葉として概念を残した谷崎潤一郎氏の功績は国民栄誉賞ものです。
恐ろしい速さで文明の発達が進む現代では、このような概念の消失が知らぬ間に、今もどこかで起こっているのだろうと思います。
向上心は大切です。新たな試みは良いものです。
けれど、だからと言って古いものをなくしてしまうのは勿体無い。
何かを得ると同時に私は何かを失いかけるのだと、己はそういう愚かさを抱えた存在なのだという自覚をもって、日々を歩ませていただきたいものです。
そんなことを想いながら、今日も私は寝落ちする。
おやすみなさい。
ありがとう、だいすき。