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もうひとりの弟

書きたい事は諸々ある。
ちょっと重い話から書き始めようと思う。

ここ、noteに私の生い立ちについて、少しづつ書いていこうとしているのだけど、なかなかまとまらずにいる。
これから書く事はそのうちの一つになるので話が前後になるけれど、
現在心境的にどうしても書いておきたい。

私を産んだ母は生まれつき重い喘息を持っていて、成人するまで育たないだろうと言われていた。
きちんと成人してお見合いだが私の父と結婚をして、私を産んで育ててくれた。
母は命のバトンを私に繋いだ。

私の幼い頃の母の記憶は、喘息の発作で苦しむ姿がほとんどだ。
身体がしんどい為に笑顔はあまりなく、つっけんどんで常に怒られていた記憶しかない。

私の父はどうしてももう一人子供を欲しがっていた。
母の身体の事をよく分かろうとしていなかったのだろう。

私が小学校にあがる年に、私たち一家は母の実家に転がり込んだ。
母は大きなお腹を抱えていた。
経済的にも、育児の負担も、実家を頼らないとならない状態で父と母は2人目を産んで育てる事にしたんだろうと思う。

秋のある日、小学校から帰宅すると、
伯母たちが集まっていて、人がバタバタする客間に白い布を顔に被せられた母が寝ていた。
人がじろじろ見る中で寝かせられてる母が気の毒でたまらなかった事が強烈な思い出。
そして私は何度も「赤ちゃんは?」と尋ねた。
母と一緒に死んだと教えられた。


この歳まで、そう思っていた。
今回、叔母と会って食事をしている時にはじめて聞いた話。

臨月の母は、急に喘息の発作を起こし、祖父が車に乗せてかかりつけの先生がいる市民病院へ連れて行った。
発作は過去に何度も経験している。だから、今回も同じと思っていたらしい。

病院について言われたのは「死んだ人を連れて来てはいけない。せめて救急車を呼べなかったのか」と。
母は、病院にたどり着く前に、車の中で亡くなってしまっていたらしい。

病院で次に言われたのは、「今なら胎児は助かる。どうするか」だった。
決断したのは祖母。
「母親失くしてだれが育てられものか、無理です。」
私の弟は、産声をあげる事無く、母と共に旅立った。

多分、生まれて育ったとしても、弟はしんどい人生だったろうと思う。
私の周りにはあまりに子供を愛情深く育てるという事が苦手な人が多かった。
父は子供好きだけど、マイペースで自分の事で手一杯な人。
今の母に巡り会うまで、酸素不足の中で生きてるような日々だった。

それでも、弟に生きるチャンスを与えてやれてたらな、とずっと思う。
スタートすらしないで終わってしまった事が、脳裏から離れない。

そう思うと、今、しんどい課題を用意されてるみたいな気持ちになる事すら、生きてこそ。生まれてからこそ。
私は生き抜くチャンスを与えられた存在なんだと強く感じている。

味わい尽くそう。
躍り上がるほど嬉しい事も。
辛くて悔しくて眠れないほど辛い夜も。
縁ある人々大事にして、たっぷり満喫しよう。

多分この世に生きるすべての人たち全員、与えられたチャンスなんだね。。

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