【自叙伝】幼少期編【2】

広島にあるとある病院で、帝王切開で生まれた。
2月29日、うるう年。
4年に一度の貴重な日に生を受けた。2014gで未熟児だった為、しばらくは保育器に入っていたらしい。

小さくても元気いっぱいで、病弱な母は、たぶん相当安堵しただろうと思う。
父は筋金入りの子供好きなので、それはそれは目に入れても痛くない可愛がりっぷりだったらしい。
私の中の記憶も、幼い私に全力で遊んでくれる父が強烈に印象に残っている。
逆に母の記憶はほとんどなく、具合悪そうに寝ているか、無理をしているのか不機嫌な母の記憶が多い。
大変申し訳ないが、母は私を嫌いなのだろう、と思いこんでいた。

私がすくすく育つ中、父は段々その生活に限界を感じていた。
母の実家、母の姉妹達、もともとプライドの高い父だが商才はない。
商売家が求める才能は持ち合わせていない。
その為、自分が見下されているような気持ちにさいなまれ、夫婦間もギクシャクしてきた様だった。

父の説得で、私達親子は母の実家を離れ、父の兄弟が多く住む
神奈川県川崎市へ移動する事になる。
今まで一度も実家を出た事はなく、病弱な母が、まだ手のかかる幼い私を連れて新しい生活。
気持ちがふさぎこんでしまうのは今の私なら痛いほどわかる。

当時の母の書いていた日記には、しょっちゅう涙でインクがにじんだページが残っている。
もしもタイムマシンが作られたのなら、当時の母の元に飛んでいって、とにかく笑顔にしてあげたくなる。
母は常にネガティブの魔物に取り付かれていた。

ネガティブになる要因に、金銭的な問題もあった。
私が大きな怪我をして病院に連れて行こうにも財布の中にほとんどなく、
貰い物のお菓子の空いた缶に貯め込んでいた小銭をかき集めて、私を抱えて行った事なども日記には書いてある。
そして、子供好きな父は更に子供を欲しがっていた。
母が私を産んだ時に、「もうこれ以上は無理でしょう」と担当医が言っていたにも関わらず、母は何度か中絶をしている。

実家にも頼れず、夫は深く理解をしようとせず、
母は相当に追い込まれていたのだろうと思う。
幼い私を連れて死のうとした、という日記もある。
私が熱心に噴水を見ているものだから、哀れになってやめた、とある。

産んでくれて、そして、死なないで思いとどまってくれたことは心から感謝しかない。
おかげで今私は生きてる事が出来ている。
嫌な事も山ほどあるけど、いつか絶対に来る「死」まで、全力でめいっぱい堪能する気持ちでいる。


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