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自己評価が低すぎることの問題…合わせ鏡のような

慢心 ではなく、誰かと比較して優越感を持つというのでもなく。正当に自己評価することは、意外と難しい。だけど正当な自己評価ができることは、一般に考えられているよりもはるかに大切なことなのではないか?と、最近考える。

謙遜・謙虚であることは美徳なんだから、やっときゃ間違いないだろうと言わんばかりに、自分をけなしまくる生き方もある。例えるならば、『用心するに越したことはないから常時マスク・除菌と消毒を心がけ、行動制限は厳しいほど良かろう』みたいなやみくもに乱暴な姿勢で自分を痛めつけ、責めまくる。

これが、知らない間にじわじわと自分をむしばむのだ。不当に低い自己評価は、いつのまにか判断力を歪めてしまう。
不当に低すぎる自己評価は、病気の一種かもしれない。

ワタシなんかダメだから…と、ブレるし、ワタシなんかよりもっと立派な人が決めたことに従ったほうが、と、自己決定権を他者に預ける。
自分のがんばりを正当に評価しないもんだから、
 こんなワタシですらできてること、そんな誰でもできるようなことができないのは異常だ!
という論法で、他人に過度に厳しくなり、断罪したりとか。そんなときの姿勢って、視野が狭くて自己中心的そのものだったりする。視野が狭いと、自分の恵まれている幸運についても気づかずに素直に感謝できないこともある。

自分が一生懸命生きている姿勢、努力してきたこと、ときには周囲の力を借りながら、成し遂げてきたこと。周囲が力を貸してくれた自分。

それは素直に認めたい。
そこから、感謝の気持ちもわき出てくるんじゃないだろうか。
幸せな気持ちとともに、他人に対する思いやりと、お互い様の心が生じるんじゃないだろうか。
自分には、できること。
だけど、あの人には無理なこと。
あの人には、できること。
だけど、自分には無理なこと。
どっちもある。
だから、価値がある。

自分が我慢しさえすればいい
と言う人は、他人に不当な我慢を強いる人になる。

ワタシが悪いんだから
と、口癖のように言ってしまう人は、実は他人に対して「悪いのはオマエだ」と感じている。

自分に向ける刃はそのまま他人に向ける刃になるように私は感じる。

殺傷事件を起こしておいて「誰でも良かった」と言う人は、「他の人はいざ知らず、自分なんて要らない。自分という人間は、かけがえのない存在なんかにはなりえない」と言っている…のではないか?

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