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福島原発処理水海洋放出開始にあたり考えたこと。

『「国富」喪失』(植草一秀著/詩想社 2017.3.30)を開いてすぐに目に飛び込んできたのは、関西電力大飯原子力発電所三号機・四号機の運転差し止めを求める住民訴訟の判決文の抜粋だった。
2014年5月21日福井地方裁判所の樋口英明裁判長による。

以下引用
「被告は、本件原発の稼働が、電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、当裁判所は、きわめて多数の人の生存そのものにかかわる権利と、電気代の高い低いの問題等とを、ならべて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことである、と考えている。このコストの問題に関連して、国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって、多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失と言うべきではなく、豊かな国土と、そこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが、国富の喪失であると当裁判所は考えている」。引用ここまで。

樋口裁判長はこの後、過酷な左遷人事に遭ったと植草氏の文章は続く。

二審の名古屋高裁金沢支部では、
「原発の危険性は社会通念上無視できる程度にまで管理・統制され、運転差し止めは認められない」と結論づけた(日経新聞Web版2018年7月4日 18:41)。
とある。

2020年12月4日付のNHKでは、大飯原子力発電所をめぐる経緯まとめが読める。名古屋高裁金沢支部の判決が確定したらしい。


そして、現在。

現在は、大飯原子力発電所三号機・四号機、運転中とのこと。


日常に取り紛れ、目先のことばかりを追いかけてしまい(自分自身の日常生活に即座に直結する目先のことだけで情報量が膨大で)、気がつくと押し流されていることに気付く。
毎日の酷暑に、冷房に頼りきり、電気にすっかり依存している。
電気料金はうなぎ登り。
先日のお墓参りの際、電車の長距離移動中に、沿線に太陽光パネルがずらりと設置されているのに目をみはった。
こんなに…。
太陽光発電は、いちど設置してしまえばメンテナンスに追われ、パネル下の農地だったところは太陽光を遮られて痩せ地になると聞くのだが。
太陽光発電の収益は結局、どうなのか。
補助金なしでは成り立たず、その補助金とは結局利用者が払う電気料金に上乗せされているのだとも聞くが。

結局自分が生きている時代の現実社会の後を追いかけて振り回されているのを感じる。
昨日から、福島原発の処理水を『薄めて』海洋放出し始めたという。
『薄めて』って…。
原液じゃありませんよと言われたってねえ…。



ガソリン代が、かつてないほどに値上がりしていることに対しては「アクセルを、ゆっくり踏むと節約になります」と指導されているとか。知らないよりはマシだけど、焼け石に水的な…。そういえば似たような『生活の知恵』があったな。戦時中に。例えば、ご飯を炊いた釜を洗う際にザルでひと粒残らずご飯粒を集めてカラカラに干し、炒ってスープの浮き実や砂糖衣を付けてお菓子(お菓子にするほど集めるのに何日分の釜を洗うのか。ただでさえ少ない米を水増しして炊いて)。家庭菜園のかぼちゃの花を揚げると美味しい(油の方が要りそうだが)。じゃがいもの葉を茹でこぼして青菜に(いや、正気か?)。配給の食材を少しでも美味しく栄養価を逃さず廃棄部分を出さず工夫料理を作るか。その心豊かに生きる工夫や心構え、大切に生きる心がけは素晴らしいのだが絶対量が足りないという事実・搾取されているという事実は覆い隠される。悪くとらずに良い面を見て、心明るく感謝して生きようとすると、権力者に対して都合良く、弱きものに対して説教がましく我慢を強いる生き方になる。

気がつけば戸惑いながらうろうろと、時代のしっぽを追いかけて、今日も生きていく。


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