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石牟礼道子『苦海浄土』第7章 昭和四十三年 より

ここにまことに天地に恥ずべき一枚の古典的契約書がある。新日本窒素水俣工場と水俣病患者互助会とが昭和三十四年十二月末に取りかわした"見舞金“契約書である。要約すれば、水俣病患者の
 子どものいのち 年間三万円
 大人のいのち 年間十万円
 死者のいのち 三十万円
 葬祭料 ニ万円
物価上がり三十九年四月のいのちのねだん少しあがり、
 子どものいのち 年間五万円
 その子はたちになれば 八万円
 ニ十五になれば 十万円
 重症の大人になれば 十一万五千円
「乙(患者互助会)は将来、水俣病が甲(工場)の工場排水に起因することがわかっても、新たな補償要求は一切行わないものとする」
 これは日本国昭和三十年代の人権思想が背中に貼って歩いているねだんでもあるのである。
 このような推移の中でチッソ工場は縮小、合理化を進め、わが水俣市は工場誘致をうたいあげ、水俣病事件は市民のあいだにいよいよタブーとなりつつある。
 水俣病をいえば工場がつぶれ、工場がつぶれれば、水俣市は消失するというのだ。市民というより明治末期水俣村の村民意識、新興の工場をわがふところの中で、はぐくみ育てて来たという、草深い共同体のまぼろし。(河出書房新社 世界文学全集Ⅲ-04『苦海浄土』175ページ よりの抜粋)

これは、昭和のことなのか。
令和の、いまのことのようだ。
水俣だけのことではなく、全国各地のことのようだ。



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