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子ども家庭庁発足に思う

子ども家庭庁が発足した。公共放送のニュースでは、早速にかまびすしい。
子どもを育てるストレスや辛さに対するサポートで、負担軽減を図るらしい。
いつものことだが真正面からニュースに向き合うと平静ではいられなくなるので、聴き流しながらつぶやく。

子育てがストレスストレスと言うけれども、その言葉が当事者のストレスをより増幅していることに気づいているか?

現在の子育てに於ける、いちばんとまでは言わないが非常に大きなストレスが何であるか、上つ方は理解できているか?

よく考えもせず、やってますアピールのネタに利用するものではない。

デフレと言われていた時期にも、教育費は上がり続けた。
親自身と同等の教育を我が子に受けさせてやることができるか。
「学校の勉強をしっかりやってくれれば、塾は必要ありません」と言われ、実際その通りだった昭和50年代。
平成半ばに我が子が中学生になったとき、最初の定期テストで愕然としたのは、親自身が塾に行かず学校の勉強だけで成績上位だった家庭の子たちが多かった。学校だけではカバーできない部分はいつの間にかかなりの量になっており、驚いたことにはそのことを自覚していない教員が多かった。塾で補完している子が多いことを知らず、やる気の問題だと信じ込んでいた。また、自分の子は早くから塾に通わせる教員も多かった。あきれたのは、『学校は集団生活を学ぶ場です。勉強は塾で教えてもらって下さい』と公言した校長がいたという話だった。
学校と、課外活動と、夜には塾。
拘束される時間が長い。
自由に過ごす時間も必要だろうに。

子どもを育てるには、質素に生活してもお金がかかる。
そしてそれは、必要なお金だから、使わないで済ませるわけにはいかない。切り詰めるにも限度がある。

共働きが当たり前のように言われる昨今。
『共稼ぎ』というのは差別用語だそうだ。『共働き』と言わなければいけないそうだ。
しかし、実態を言い表すのは『共稼ぎ』の方だろう。働くとは必ずしも金銭的な見返りを伴うものだけではないはずだから。
しかし専業主婦は、『家で遊んでる』と言い表されることがある。


人間の子どもを育てるのは、片手間にできることではない。人間の命と心を預かり、護り成長を助ける責任の大きさ重さに怯みながら必死。

なのに『活躍すること』を強いられる。小さな子どもを安心させることや、子どものとりとめのない話に気が済むまで付き合うことは『活躍すること』には認めてもらえない。子どもは、一見とりとめなくしゃべっているかに見えて、話すことで探していた答えを見つけていくのだが。

子どもの「もういっかい」の声に応えて繰り返し絵本を読み聞かせして、何十回繰り返したやら、気がついたら2時間が過ぎていて夕食の支度に気持ちを焦らせるときもある。絵本の文章をすべて暗記して飽き飽きしていても、子どもは満足気に笑って絵本の言葉を繰り返す。この笑顔が何に替えられようかと思いながら、お米ぐらい研いで野菜の下茹でぐらいさせてよとの思いがちらと頭をよぎる。
それらの日々はすべて、非生産的なことと言われるのだ。

忍耐と工夫。体力と精神力を総動員しなければできないことを、つまらないこと呼ばわりされて平気でいられるほど、人間の心は強靭ではない。

そこに、親切そうな猫撫で声で近寄って、
「子育てはストレスでしょう」と言われる。
「もっと活躍したいでしょうに」と憐れまれる。

お金を受け取る仕事の世界も、責任は大きく重い。
子育てと仕事、2つの厳しい世界の板挟みになる、と、言ってはいけないらしい。
『両立できている』人がいるのだから。
その人たちの頑張りを否定するようなことになるのは良くないから、皆、その後に続かなくてはならないらしい。

そんなとき、
子どもを持たず、或いはひとりだけを大切にはぐくみたいと考えることは普通にあるのではないだろうか。
何人もの子どものいる家庭を夢見たことはあっても、そのせいで身動きとれない状況に陥ったり、その挙げ句もしも育てきれないことになろうものならと不安になる。
無理や無茶にならず、身の丈に合ったできる範囲の生活を送ろう、と決めたとしても誰がそれを責められようか。

子育てはストレス?!
単純に決めつけて、わかったようなことを言うものではない。

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