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確約できないことへの不安

「自分は絶対に、かからない」と言い切れない以上は
「自分は絶対に、他人にうつさない」と言い切れない以上は
「自分は絶対に、必要なときに急な不調で出てこれないようなことにはならない」と言い切れない以上は

上のお達しに、過剰なまでに適応してしまうのだ。
確約できれば、未来の状況が見えれば、ここまで過剰適応しないだろうに。
接種せよと言われたら接種したりとか
自粛せよと言われればきちんと自粛して
両手が使える鼻口当て布も装着し
消毒薬噴霧に至ってはお祓いの如くに行い(ちなみに引火性)

もしも自分発で何か他者に迷惑をかけてしまったら、
「私はすべきことは全て、上の言うとおりに実行しておりました」
と言えるようにと余念がない。
対策を全て講じていたのなら、落ち度なしとして免責されるという不文律?
結果ではなく、手続・手順が重んじられる社会。
もともと、罹患して苦しい目に遭っている人が自分を責めるのはとんでもなく理不尽なのだが。それはそれとして、接種したのに罹患した場合は多少不問に付されるという空気があるのだろうか。
「『大切な人を守るため』『思いやり』などという謳い文句で受けたのに、罹ってしまってごめんなさい」というような行き過ぎた反省を聞かない(決して聞きたいわけではない)のは、受けた時点で免責特権を手に入れたということなのだろうか。
「重症化を防ぐというけれども、その効果によって罹患していても動き回ってしまって自分が周りに広めては…」などと気にする声も寡聞にして知らない。そこまで気にする人は、とっくに心療内科の患者であろう(私自身がそういうヤツなので、とっくに心療内科の客だ)。

つまり、ナンだな。
この社会で重要視されるのは、手続である。
だから、アリバイ工作は重要だ。
目立たぬように、目をつけられぬように。
大勢に埋没しつつ、損をしないことを旨とし、可能であれば得になるように立ち回る。

それらすべての根にあるのは、
確約できないという不安。
そもそも、先のことを確約できるものではないのだが。先のことを請け負うときにできるのは、何もイレギュラーなことが起こらなければ…という、条件付き約定に過ぎない。

たまたま、ひとりひとりがその不安と正面から向き合わざるを得なくなって、それでも、「他人に迷惑だけはかけないようにしています」と言う為に、上からの指示を理に適っているか否かにかかわらず受け入れていく。
やれと言われていることは、すべてやっていますよ、と言って免責を得るために…?

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