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竹ぼうきの音

竹ぼうきがコンクリートをこする音
ザッザッザザッ
「掃き清める」古臭い言葉が浮かんだ

イチョウがそこかしこにちらばっている場所でした。
あたり一帯にまだ鮮やかな黄色のイチョウがある地面は、それはそれで綺麗だとわたしは思いましたが、まぁ上からの司令ですから。たかが学生アルバイトの身分では従うほかありません。

152cmのわたしとしては、握り手が太い竹ぼうきを使い続けるのは中々な労働でして。
とりあえず大雑把にイチョウを1箇所に寄せていきます。

竹ぼうきを動かすごとに、イチョウが移動して、濃い灰色のコンクリートが見えてきました。

さっきまであったイチョウが、消えていく。
イチョウと一緒に、めんどくさいなぁって気持ちとか、重いなぁって感覚が薄まっていきました。完全に消えはしないけれど、無心、に、近い状態になります。
そんな中で、掃き清める、という言葉が浮かんだのです。

イチョウそのものは、悪いものでもなんでもないんです。ただ、落葉しただけ。
けれど、持ち手がやや太すぎる竹ぼうきを使って、ザッザッという音を感じながらイチョウが一掃されていくのを見ると、不思議と清められていくというか、世界と共生しているような気持ちになるのです。

5分くらいの短いテレビ番組で、音のソノリティという番組があります。多分、今もやっているはず。
音のソノリティでは、料理する音だったり、水たまりに新たな水滴が落ちる音だったり、とにかく「音」を抽出することで、音から繋がる風景やにおい、空気を呼び起こしていることに狙いがある、と思っています。

よくよく考えてみれば、音を発するとちうことは、この世界にいなければできないことです。当たり前のことですが、テレビや音楽など、多種多様の音に囲まれていると意外と忘れてしまいます。
でもそう、音を発するには、発するための道具が必要です。自分の身体だけでもいいし、楽器やお茶碗、バケツでもなんでもいい。それらを叩いたり吹いたり、蹴ることによって音は発生して、空気を伝ってわたしたちの耳に聞こえていきます。
音を発するための依り代と空気というヒモ。これが「わたし」と繋がっているということであり、同時に「わたし」はこの世界にいて、生きているということで、
すなわち、音が聞こえるというのは、この世界とヒモで繋がっているということだと思うのです。

音とは異なるアクセスで世界と結びついている方も多くいますが、だからといって音から繋がる世界をないがしろにしていいということではないでしょう。
世界と繋がっていないと感じるのは、本当にしんどいことです。どんなにたくさんの人がいて囲まれていても、孤独を感じる時はあって、苦しい時は苦しい。
世界を感じても、その苦しみの根源は消えないけれど、一時的にでも心を照らしたり、世界の広さを思い出すだけで救われるものはきっとあるはずです。


神主さんやお坊さんといった人たちは毎日掃除をしているイメージがありますよね。
想像ですがああいう方たちは、掃除を通じて身体と自然とのつながりを感じ、何か大きな力、コスモロジーを心身に取り入れているような気がするのです。
苦しみそのものを取り除かなくても、生きていけるように。


そんなふうに考えたら、労力と時間が奪われる竹ぼうきの掃除も悪くない。
冬の遊園地での出来事です。

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