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脳幹部海綿状血管腫 全摘手術から26年

26年前の今日10月24日、19歳の私は札幌医大の脳神経外科で手術に臨んだ。
11時間に及ぶ手術の後、麻酔から覚め、執刀医の『大成功』という言葉に心から安堵した。右目は外転神経麻痺で全く動かず、顔面は右側が麻痺し、左下肢は温痛覚障害、嚥下困難で何も飲み込めなくなっていたけれど命の危険はなくなった。

はじまりは17歳の11月3日。突然右目が寄ったまま動かなくなった。ものがすべて二重に見える。すぐに地元北見の脳神経外科でCTを撮った。脳に影があると言われ入院。病名は『脳幹部海綿状血管腫』。脳の幹と書く脳幹は、多くの神経が束になっていて、人が手を入れてはいけない場所だと教えられた。私はそこに生まれつき血管腫があり、出血することで神経を圧迫して体が麻痺した。

その後、この病気の手術を得意とする医師を母が分厚い名医図鑑から探し出し、セカンドオピニオンを求め札幌で検査入院。手術はリスクが大きすぎるからと経過観察になる。『再発する人』と『しない人』がいるからと。

激しい運動は避けて体育は見学、定期的にMRI検査を受けていたけれど札幌で一人暮らしをはじめた18歳の終わりに再発した。前回より出血が大きくなり、私は『再発する人』だった。

流れは手術に傾き説明を受けた。成功確率は50%未満。成功しても右目の外転神経は麻痺する。目が動かなくなることは諦めるよう言われた。再発しない可能性もゼロではないから、手術を受けるか受けないかは自分で決めなければいけなかった。病棟で同意書を前に苦悩する両親の姿が、今でも目に焼き付いている。あまりに難しい選択。受けると決めたのは私だった。次の出血で、自分で生活できなくなるほど体が麻痺するかもと思うと怖かった。

手術の説明を受けた日から手術室に入るまで不安と恐怖に押しつぶされそうで、泣いても泣いても涙が枯れることはなかった。麻酔から覚めたら麻痺は目だけで済むのか、その前に本当に目覚めるのだろうか。

インターネットが普及しておらず、SNSのない時代、自分の病気について医師の言葉だけが知り得る全てだった。


11年前、はじめてブログに病気のことを書いた。自分が病気だったとき欲しかったのは『情報』。書くことで誰かの役に立てるかもしれない、と思った。

ブログを見て何人かの同じ病気の方から連絡をいただいた。どれくらい役立てたかは分からないけれど、当事者だから分かることだけは伝えられたと思う。


5年前には2度目の目の手術を受けた。


人前に立たせていただくお仕事をする中、正面を向けないことがコンプレックスになり手術を決めた。大幅な改善にはつながらず今思えば必要なかったかもしれない。けれど出来るだけのことをしたと諦めがつき、過去を振り返らなくなった。


コロナで色々なことが止まり、自分、家族、色々なことを見つめ直す時間をもらった。心身ともにすっきりしたくて断捨離。忘れかけていた過去の断片をいくつも見つけた。

捨てようと開いた国語辞典は、1ページだけがくしゃくしゃに膨らんでいた。開いてみると一つの単語が色々な色のペンで何度も何度も囲まれ塗りつぶされていた。『身体障がい者』。右目が寄ったまま動かないことで、人の目が気になり、いつもうつむき加減。麻痺する前の自分と比較し、周りの健康な友人たちと比較し、普通ではない自分に傷付いていた。今は分かる。障害の有無が人の価値ではないと。すべて人は尊く価値ある存在だと。

術後たくさんの人たちが『大丈夫?』と心配してくれた。その気持ちは嬉しかったけれど。何か月も学校をお休みしてテストは受けられず、実習にも行けず、出席日数は足りず、病み上がりの体で必死で勉強。『大丈夫と答えてしまうから、もう大丈夫と聞かないで。つらいつらいつらいつらい。誰か代わってほしい。』と走り書きがあった。毎日図書館の閉館時間まで勉強して、家に帰れば鏡を見て泣いていた。生きられる喜びと生きている苦しみとの狭間で本当に苦しかった。


コロナ禍で『家庭科の被服の授業に出たいのに出られず単位を落とす夢』を何度も見た。何の夢か分からずただただ嫌な気持ちになった。

今年に入り、昔の手帳をシュレッダーにかけていたら『被服の授業、みんなテディベアを縫っているのに私だけパーカー。泣きたくなった。』『夜歩くのが怖いからお昼休みにスーパーで買い出し』と書いてあった。すっかり忘れていても心の深いところに残ることがあるんだ。

目の手術を終えた後の日記には、(目が寄ったまま過ごした)『1年3か月、いつも人目を気にして下ばかり向いて歩いてた。外に出るのが怖かった。毎日鏡を見ては泣いた。心から笑えたことは1度もなかった。今日久しぶりにおなかの底から笑った、やっと顔を上げ前を向いて歩いて行ける。自分は自分と認めることが出来る。』と書かれていた。

古いおくすり手帳を開いたら2003年の5月から2004年の9月まで、2週間に1回抗うつ剤が処方されていた。心療内科ではなく、十代からずっと見てくれていた脳神経外科の先生により。はじめは左下肢の温痛覚障害の緩和のためだったけれど段々と食欲がなくなり眠れなくなった。パキシルを飲むようになってから一気に回復。治った後で心療内科を紹介しようかずっと迷っていたと言われた。あのとき投薬治療を受けていなかったらどうなっていたか分からない。本当に運が良かったと思う。

今でも季節の変わり目や大きなストレスがかかると左下肢が痛む。でも心のバロメーターになってかえって分かりやすい。からだを温めたりヨガをしたり、限界が来る前に切り替えられるようになった。


過去の苦しい出来事を思うとき、昔はどこか自分をかわいそうだと思っていた。みんなと同じ『普通』に心底憧れ、そうなれない自分を否定した。でも今は大変なことが多かった分、考え感じ学ぶ機会も多かった過去に感謝しかない。

仲の良いお友だちは会うたび『りさちゃんまた変わったね』と言ってくれる。コロナ禍でもひとつ大きなミッションがあり大変な日々だったけれど、過去を振り返ると『大変』なことは、いつも自分を『大きく変える』きっかけになった。だから今回もまたそう出来る予感があり、ちゃんとその通りになった。


見たい方向を見ることが出来ないというのはなかなかに不便で、慣れないスーパーに行けば欲しいものが見つけられず、はじめての道ではよく迷子になる。お食事会の席順では右端じゃないとコミュニケーションが取りにくい。車の助手席は苦手だ。目にゴミが入っても眼球を動かせないので、取り出すのにとても苦労する。
昔は見づらいからこうして欲しいと伝えるタイミングが分からず、言って微妙な空気が流れることを恐れた。今はネタにして笑い飛ばせる。よく撮影でご一緒する方たちは、視野が狭いせいで道に迷い、目の前にあるものを探せないと嘆くと、『りささん、それ目のせいじゃない気がする(笑)』と笑う。そんな時間がとても幸せだ。


人と比べ自分のあら捜しをするのではなく、『今をどうやって正解にするか』を自然と考えられるようになり、人生がスムーズになった。辛いことも工夫次第で幸せや楽しさに結びつけられると経験させてもらい、身をもって実感出来たことが人生の宝。

真っ黒な墨で塗りつぶされたように感じていた青春時代が、今振り返ると彩り豊かに輝いて見える。今すべてを糧に出来ていると自信をもって言える。

自分を大切に、家族を大切に、出逢えた人たちを大切に、感謝を忘れず27年目も私は前に進む。

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