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自分の内なる声を聞いてあげないことの代償について。

昨年7月に「在宅勤務がもたらした心の変化。」というエッセイを書いた。

実は、昨年コロナ禍が騒がれ始め、4月頃には在宅勤務へと移行し、その環境の変化がきっかけとなり、私自身の心にはとても重たい何かがのしかかった時期があった。それが5月頃だったと思う。

今、振り返ってみると、あれは軽い鬱状態(初期?)に近かったと思う。

毎日、仕事のためにパソコンを開けるのがしんどくて、YouTubeで瞑想(Self AffirmationとかSelf Love)を10分くらいしてから、仕事に取り掛かるようにしていたが、本当にしんどかった。一時的には楽になった気もしたけれど、根本的に何も解決しなかったのである。

次第に、頭がクリアではなくなり、思考が働きづらくなっていく。当然、仕事にも支障が出た(業務をさばくスピード感の鈍化や集中力の欠如)とは思うが、在宅勤務だったこともあり、這いつくばる気持ちで業務をこなしてはいたものの、周囲には気づかれなかった。(仲の良い同僚には、一時期やばかったことは伝わっていたらしいが、それはオンライン飲みの席で。。汗)

実はこの時期、12月の学会発表のための概要提出が控えていた。2020年1月に提出したばかりの論文の内容を概要に書き直そうとも、その内容が思い出せなくて、概要を書くのがとてつもなくヘビーだった。。頭が重い。鈍い。

それでも、「頑張らないと!頑張らないと•••!」と自分を追い立てるような気持ちで一応書き切って応募した。

この頃は、「自分が何のために生まれてきたのか?」冗談抜きでわからなくなってしまったのだ。仕事に意味を見い出せなくなり、それでも「辛い」とは言えなくて、「生きている意味がないのではないか?」と言っても理解はされず、在宅勤務による気分の落ち込み程度だと思われてきたと思う。

でも、私にはどうしてもコロナ禍の影響とは思えなかった。理由がなんとなく、わかっていたのだ。現実(にいま私がやっていること)と理想(こういう生き方をしたい)のギャップを目の当たりにしてしまったのである。アラサーにもなって恥ずかしいのですが、本当にそうなんだと思う。

「どうしよう、どうしよう、いつまでこんな気持ちが続くのだろう、しんどいなあ。」と思っていた時に、noteをはじめ、紙粘土による造形を始めたのである。とりあえず、気持ちを書いて、何か表現したくて。表現するものや場は何でも良かった。出来ることから取り掛かった。

一時的には楽になる局面もあったのだけど、根本的にはずーっと重いものがのしかかってきていて、どうしたもんか?と悩み続けていた。

そんな時、友人に「認知療法の先生に所に通ってみるものいいよ」と言われ、友人が過去に通院した先生を紹介してもらった。

「心療内科とか精神科にはかかりたくない」と昔は思っていたが、別にもうカッコつける必要もないし、そんな偏見はなくなっていた。早速アポを取って行ってみることに決めた。

初回のカウンセリングでは、何を話したらいいのかよくわからなかったけれど、先生は私の生い立ちや悩みを聞き、認知療法とはどんなものか説明をしながらカウンセリングをしてくれた。

初回で出された課題は、自分の1日のスケジュール(事実)と、その時に自分がどう感じたかを綴るという日記のようなものだった。それを次のカウンセリングまで毎日綴る。

毎回のカウンセリングは、私の悩みというのを具体的なエピソードを交えながら先生に話し、それに対して「どういう考え方が問題」で、「こういう考え方があるよ」といった会話のやりとりをしていた。

どうしても当事者だと物事を客観的に見られないことがあるけれども、先生の視座は一段高く、私を客観的に俯瞰してくれる感じのコメントだった。(歪んだ認知に気づかせてくれる、というのかな)

詳細はあまり覚えていないのだが、一つとても印象に残ることを言われたことは、今でも覚えている。


「あなたは、一番やってはいけないことをやっています。」


正直、この言葉にビビってしまった。


真っ先に考えたのは、私自身の発言や行動で、周囲の人たちに迷惑をかけちゃったのか?ということだった。


しかし、先生が次に発した言葉が意外すぎた。


「あなたは、自分の気持ちを無視していますね。」


「へ?」でした。私はてっきり、怒られると思ってビビっていたのですが、全く見当違いだったのだ。。

「自分の気持ちを見てあげないで、無視している。自分というのは本来、あなたの一番の味方であるはずなのに」


訳が分からなかった。


先生は、具体的なエピソードからどこがどういけなかったのか、教えてくれたので、非常にわかりやすかったのを覚えている。

考えてみたら、相手のことを気遣って、自分の心の声に耳を傾けない癖がついていたことに気付かされた。

しかも、「相手のことを気遣って」と言うのも自分の主観にすぎないので、相手が本当にありがたく思っているのかは別である。ちょっと、押し付けがましくもある。

本来であれば、相手も自分もハッピーになるという答えを出せるのだと先生は言った。これが、相手と自分の意見の折り合いをつける、と言うことらしい。客観的に物事を捉えられる人というのは、この折り合いをつけることが上手いんだと。

一方、私はというと完全に自分の意見を無視していた。

本当は嫌!と思っていても、相手の気持ちを考えるとNOと言えなかったり。さらに、相手を思いやって出した答えが、本当は相手の望むものではなかったということもあったと思う。

「人として、こうあるべき像」というものに、自縛されすぎていたんだな。

そして、他人の目に過剰に怯えていたのかもしれない。

いつしか「自分」を見失い、「自分の意見」というものがなくなっていたんだろう。誰に気遣っていたんだろう。私の人生なのに

これをきっかけに「自分に蓋をしてきたこと」への反発が出てきたんだと後に気づいた。というか、この出来事は、「私の本心を見てあげて!」と自分自身にメッセージを送ってくれたのだと思う。

だから、脳の動きをシャットダウンするということ、仕事への意欲を削いできたのだろう、と今は解釈している。

一般的には、このような症状は鬱に該当するのかな?

それ以来私は、「自分に寄り添ってあげよう」と思うようになった。

ダメな自分でも、とりあえず受け入れようと思った。

あと、プライベートでは嫌なことには「NO」と怖がらずに言うことにした。相手は、案外何とも思っていないことが多いと分かった。むしろ、この方が平和なことがある。

もしがんばれなくても、いいよって言ってあげる。きついことは求めないで、ありのままを受け入れてあげようと。

そうしてついに、「自分がしたいことは、まずやってみよう」って思うところまでに至ったのです。


そして、自分の心の声を聞いてあげるようになってから、少しずつではあるけれど、変化が現れるようになった


まず症状としては、感情の激しいアップダウンが減った、またはなくなった。緩和された、というのがしっくりくるのかな。落ち込みや怒りを感じても、自分を俯瞰できるようになった。


以来、「自分の内なる声を聞いてあげよう!」と堰を切ったように、抽象画を描き始め、今年はMacbook Proを買って、イラストレーターやフォトショップでの創作活動をしている!すごく楽しいし、ワクワクしている。

それが、この記事で綴っていることです。

思考が働かなくなった感じはもうなくて、クリアになった。戻ったのだ。

誰にでもこういうことが起こりうる現象だと思う。

きっと、「ちょっとしんどいな」くらいの気持ちで毎日過ごしている人がいるかもしれない。毎日過ごせるくらいの「程度」でいることもあるんだなあと、自分のケースを見てわかった。もしくは自覚がないこともあるのかもしれない。題名に「代償」としたのは、ちょっとしんどい症状だったりのこと。でもその代償は放置していたら「代償」のままだけど、気が付けるとポジティブな意味に転換されます。代償まま放置は、辛いよね。


どんな自分も受け入れてみよう。


こんなこともできない、あんなこともできない、とい自分を責めていた。でも、そんなことは何にもならん。バイバイ。

もし、辛いなと言うよく分からない気持ちや思考鈍化の症状があるとすれば、その正体は「自分の気持ちを見てあげて!」というサインかもしれない。

自分の内なる声のことです。これを聞いてあげることで、「だいぶ救われることがあるんだなあ」、という選択肢があると知っただけでも、大きな気付きだと私は知りました。

個人的にこの気付きは非常に大きく、この先の人生を考えた時に本当に良かったと思っています。

次回は、自分を受け入れるようにすることで、「周囲も助かるし幸せになることがあるんだな」ということを書けたらいいなあとぼんやりと思っています。


ここまで読んでいただき、ありがとうございました!


**本エッセイは、あくまで経験則に基づいて個人的な考えで綴っています。



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