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自己表現における捉え返しと消し去り――「「マイナス内包」としての性自認の構成」批判



はじめに

 「自らについて表現する」とは、どのようなことだろうか――これは、 じつに素朴かつ難解な問いである。日頃我々はごく当然の様に自分について言語化し、それを自他ともに理解している。しかしその様な理解が成立するまでの過程において、我々がどの様に自分自身を(特有の)中身のある存在とみなし、それに意味を与えているのかまで考えるならば、その解明が一筋縄ではいかないことは、容易に察せられるだろう。ここで言う「表現」とは、対象を中身のある存在として捉えることを指す。その上で「自己表現」という言葉は、こうした表現が自らに向かう場合、つまり自分を中身のある存在として捉えることを意味する。
 ところで谷口一平の論文に「「マイナス内包」としての性自認の構成 」というものがある(注1)。この論文では「自分のことを女性(男性)だと思っている」信念のことを「性自認」と呼んだうえで、「それがいかにして可能であるのか、どのような概念の構成経路を辿ってそれが成り立ちうるものであるのか」(76頁)について議論を行っている。本論は、この論文を批判検討することを目的としている。
 予め断っておくと、本論の検討は、谷口の議論がどれだけ整合的かつ妥当しているのかを明らかにするためのものではない。そうではなく、氏の議論が成立することを可能にした背景を探ることで、より根源的な視点から氏の議論を捉えなおすためのものである。また、前もって述べておくなら、自己表現が如何にして成立するのかという問題が、谷口の議論のより根源に存在し、またその仕組みが氏の議論を支えていると筆者は考えている。本論の批判は哲学的批判にあたるので、筆者の問題意識から谷口の議論を更に掘り下げて、新たな哲学的視座から氏の議論を捉え返すことを目的とする。
 よって本議論は、谷口の議論を捉えなおすのに応じて、自己表現の仕組みについても同時に考察する形ですすめていく。第一章では、氏の議論を、特に注目すべきポイントに絞って、端的にまとめる。続く第二章では、氏の用語の一つである「原罪前性自認説」が概念としては特別に脆弱であることと、その脆弱性が自己表現の問題を示唆していることを示す。そして第三章では、自己表現の問題がどの様に谷口の議論へ接続するのかと、それが具体的な性的規定とどの様に関わるのかを検討する。ここで自己表現の仕組みから谷口を一度批判する。その後第四章で、敢えて谷口の議論の文脈に即して、自己表現の批判に応答してみる。そうすることで、氏の議論が含む考察の射程を可能な限り引き伸ばせるよう試みる。その上で第五章では、キルケゴール哲学と対比しつつ再度自己表現の仕組みを整理することで、谷口への再批判の準備を行う。最後に第六章にて、谷口を再批判する。大森荘蔵の議論も引き合いに出すことで、谷口の議論を自己表現の仕組みからさらに掘り下げ、氏の議論を背後から支えている哲学的考察に踏み込む。
 本議論全体により、谷口の議論の手前にある自己表現の問題が一通り提示されるだろう。今回は批判論であるため、より遡及的な問題を提示し、そこから氏の議論を捉え返すことに終始した。その上で、自己表現の問題から新たに何が解明されるのかについては、別稿にて西田哲学の場所論の議論で明らかにする予定である。

第一章 「性自認」を言語運用するための理路はどの様に確保されるのか

 谷口の議論をまとめるにあたり、初めに氏が論文全体で特に拘っている点を筆者が一言で提示すると、それは「(性自認の)言語運用」になる。氏は「性自認」の構成経路を辿る上で、特に性がどう理解されるようになるのかを明らかにするために、言語が我々の内に成立し、また習得されるプロセスを整理している。そうすることで「性」という、それを認識する段階と、それが存在することになる段階とがずれてしまうような、非常にデリケートな対象を、丁寧に我々の理解に照らし合わせているのだ。そして、その上で氏は「脳」に着目することで、自らの「性」がどう概念化される(必然性がある)かという水準だけでなく、そうした概念化におさまらない様な自らの「性」への信念、ないしその可能性を世界内に担保しようと試みている。以上の議論全体の着目点を共有した上で、これからもう少し細かく氏の議論を確認していくが、こうした谷口の議論の方針を汲むだけでも、(氏の議論の道筋に賛同するか否かはさておき)「性自認」を理解する為の議論の下敷きを整備するのに、この論文が一役担っていることが伺えるだろう。
 谷口の議論をもう少し踏み込んで確認してみるにあたり、まず注意すべき点を挙げると、氏は「私は自分のことを女性(男性)だと思う」という際の思いを、(特異な)体験や感覚とは区別している。また、その際に引き合いに出されているのが、ウィトゲンシュタインの私的言語に関する永井均の考察である(第3節)(注2)。永井の考察では、感覚の認知の自立によって、観察可能な徴候(ないし外的脈絡との関係)もなしに、当人にとっての感覚そのものが判別可能であることが言語の成立条件をなす(し、そこで外的脈絡から自立している当の感覚が私的言語を可能にしている)。この考察に対して谷口は、「女性(男性)」といった性への言語の成立に関しては、特異な体験や感覚が紐付かない点に注目している。私的言語は言語の成立条件であるが故に、「私は自分のことを女性(男性)だと思う」という際の思いの自立は、それだけでは「女性(男性)」を有意味にする信念にはなり得ないという訳だ。
 こうした谷口の議論の筋からも分かるように、氏は内的(私秘的)に「性自認」を(何かとして)同定する様な素朴な試みは頓挫するとみなしている。この捉え方は、氏の議論の進行方向に関して、非常に重要な意味を持つ。自らの性を有意味にする概念化についての解明とは別に、自らを特定の性と思う信念の発生を解明する方途を見い出すことになるからだ。
 そこで次に谷口はキルケゴール(の『不安の概念』)に目を向けて、「性自認」という信念の発生を解明するために、自らが無垢(無知)である原初の状態に言葉が到来することで、自らがどの様に変質し、性意識を成立させるか、その現場を明らかにする方向へ議論を進める(第4節)。氏は、すべての個体は、それ自身が世界全てであると同時に、自らが世界の中に実在しているという二重定位の在り方をしている点に着目する。こうした在り方によって、(アダムしかり)無垢な個体である自分自身は、一から罪を犯すことで、その罪は(他ならぬ私によって犯された)類例なきものとなる。また罪が世界に到来する(生じる)ことで、それは本質的な規定(罪性)も帯びることになる。ここで、罪は罪性に存在論的に先行しているので、罪についての理解が後から(世界の内で)可能になる様な、質的な跳躍が生じる。谷口は質的な跳躍において、無垢が、自らを対象なき不安として抱えていた状態から、自らを(特定の)一人物として客観的世界の内部に存在する仕方で知る様に変化する点に注目する。
 一度自らを世界内の(特定の)一人物として存在する仕方で知ってしまったならば、無垢は失われ、自分は主体として言語の意味を自覚的に引き受けざるを得ない。またその際に、客観的世界の中に存在する自分という(特定の)一人物は、特定の性別を持つ身体として自覚されることになる。そこで谷口は、キルケゴールに沿って性意識を成立させるまでの現場を整理した結果、言語の成立と性意識(および性的身体)は、この私が最初に受ける本質規定として等根源的であるという考えに至る。また、その様に考えるなら、罪が罪性に存在論的に先行していた様に、性性は性欲(羞じらい)によって先駆されることになる。自らが、世界内に性的身体として存在することを知ったからこそ、アダムとイブは裸であるその人物が他ならぬこの私であることに気づき、羞じらいを抱いたのだ。
 さてそうなると、こうした現場において、今度は「性」を自認するという現象はどの段階で生じたのかを明らかにする必要がある。ここで谷口は、言語の成立(原罪)以前に性的主体の自己規定は可能であったとする 「原罪前性自認成立説」と、原罪後でなければそれは不可能であるとする「原罪後性自認成立説」という区別を設けて、「原罪後性自認成立説」が正しいのだとみなす(第5節)原罪前(無垢の段階)であっても「男・女」という呼称は可能であるものの、それを世界内で引き受ける主体は成立しえない。よって氏は、「男・女」という呼称が、私(の身体)が受けるべき内容的規定となるためにも、自らを(特定の)一人物として客観的世界の内部に存在する仕方で知る様になった後で、初めて性自認は成立するという考え(「原罪後性自認成立説」)へと進む。またそう考えることで、言語に組み込まれた人称装置と「私の性的身体」とが有意味に繋がる訳だ。
 しかしすべての個体が二重定位の在り方をしている点を勘案するなら、それ自身が世界全てである在り方において、(性自認における)性が言語(装置)と接続して概念となることと、それが世界全体を内包とする概念にまで拡張されることは、同時に出てくる。また、性自認の成立が原罪後であるというのが認識論的順序である以上は、(存在論的順序としては)私が最初から特定の性別であったことも踏まえなければならない。そこで最後に谷口は、入不二基義の「マイナス内包」と(超越論的な)「脳」を引き合いに出すことで、認識に先立つ様な自らの「性」への信念、ないしその可能性を世界内に担保しようと試みる(第6節)
 マイナス内包とは、(ごく大まかにまとめると)認識論的順序を存在論的に顚倒する場合に、それ自身の存在が認識に先立つ(順序が逆転する)のならば、それと同様の逸脱は最初から生じていたかもしれない、と考えることによって導入される「内包」である。また、こうした仮定のもとに導入されたが故に、マイナス内包は何かとして確定されない(潜在的にはそこから何でも汲み出せる)ため、「内包」と鍵括弧付きで表記される。こうした説明からも明らかなように、「性」の様に、それへの認識とその存在が成立する段階がずれてしまう対象に対して、マイナス内包は非常に重要な役割を果たす。(認識論における順序も一方で担保しつつも)性自認が本質規定に先立つ「性」への信念を抱くために必要な、もともと最初からなければならないとされる「内包」を、潜在的なかたちで導入してくれるからだ。
 そうなると、今度はマイナス内包としてジェンダーが構築されることを可能にするための、言わば世界に「内包」による性自認の可能性を担保するための元手として相応しいのは何なのかという問題が生じる。これに対し谷口は、(超越論的な)「脳」がその役割を果たすのに相応しいという見解を取る。その理由として、初めに氏は(古くから男女の区分をかき乱す想像力は神話等で豊かに発揮されたことを認めつつも)身体的事実としての性別と別に「自分のことを女/男だと思っている」という性自認の信念が語られることについて、特に現代科学との親和性が高いことを挙げる。
 また、その後に氏は、「中心化された可能世界」というコンセプトからも「脳」の適任さを明らかにする。個体は二重定位の在り方において、(一方で)それ自身が世界全てである在り方をする。そこで自らの(事実としての)身体的性別とは別に性自認を語る場合は、別々の可能世界を想定して、私がそもそも初めから別の個体(別の可能世界)でありえる様な可能性として(身体的事実としての性別とは別に)性自認を語ることになるのだ。そうなると、(それ自身が)世界全てである在り方は、世界の内容の一部としても(比較可能になる様に)登場してもらう必要がある。ここで「脳」が(現代の科学において)超越論的統覚の “物質” 化形態として考えられれば、脳(が登場する際の内容的規定)と身体(における事実としての性別)の繋がりが(物理的世界においては)必然ではない以上、「私が所有している(事実としての)身体的性別とは別に、私はもともと特定の性別であった」という(性自認の)信念が、(「脳」がそれを担保するかたちで)有意味に成立することになる。
 言わばこうした「脳」のとらえ方によって、事実としての性を所有する身体が、(言語の様相化装置によって)もともとそうではない性としても考えられる(可闢的身体の)様になった。またその可能性を(超越論的統覚として)担保するかたちで、物質的にも脳が発見されてくれる。以上の議論を通して、(認識や)性的身体に先立つ様な自らの「性」への信念は、(「脳」を元手に可能となって)マイナス内包として成立した。そしてマイナス内包であるが故に、こうした性自認は概念によっては固定できず、 自己確証としては語りえぬまま、もともと最初からそれ自身の可能性(暗闇の中の跳躍)としては理解可能であることが明らかにされたのである。
 ここまでで谷口の議論全体の内在的な考察の筋道が確認できた。よって次章では、こうした理路が成立した背景に自己表現の問題があることを明らかにする。そうすることで、更に根源的な視座から氏の議論を捉え返し、批判検討をおこなっていこう。

第二章 「原罪前性自認説」の脆弱さが示す自己表現の問題

 これから谷口の論文を批判検討するにあたり、予めことわっておくと、氏の論文は、既にある程度筆者との議論を済ませた後に作成されている。よって、氏の議論にはいくらか筆者の関心や考察も含まれているため、まずは氏の記述からそれを確認しておこう。谷口は、第4節の議論の初めの個所にて、以下の注釈をつけている。

  本節から次節にかけての議論は、高崎和樹氏と私的に交わした対話に、 
  多く依っている。ただし、氏は筆者と異なり「原罪前性自認成立説」を
  取るようである。(90頁)(注3)

ここで谷口が補足してくれている様に、筆者は「原罪前性自認成立説」の立場から、(この論文が執筆される前に)氏と議論を交わしていた。ただしそれは、「原罪後性自認成立説」だと整合的な説明がつかなくなる個所があるからでも、ましてや「原罪前性自認成立説」の方が優れた見解を示せるからでもない。「原罪前性自認成立説」の方が、(「原罪後性自認成立説」と比べて)より遡及的に本来考察すべき点を明らかにできると考えたからである。その後、この批判論を書いている現時点での筆者は、殊更「原罪前性自認成立説」の立場に立つことはやめている。「原罪前性自認成立説」は、それによって遡及的に問題を明らかにすればする程に、その立場を維持する必要をなくしていくことに気づいたからである。その辺りを論じていくためにも、筆者からも聖書を意識しつつ、これら二つの説について整理していこう。
 聖書の解釈の下地を示唆した拙テキストである「キリストの救済、その一つの真実の物語」を基に、原罪前から原罪後に変化する様子を辿ることで、二つの説を順に説明していく。特に(谷口が問題にしている様な)性自認と関わりの深いテキストを引用すると、例えば以下の箇所がある。

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