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第168回芥川賞候補作について〈前編〉

2022年下半期の芥川賞候補作品を日本文学振興会が決定した。今回は〈前編〉として三作品に触れる。〈後編〉は2023年1月の選考会前に、受賞作予想とともに記事にする予定。なお、あくまで私自身が感じたまま書いている、と付け加えておく。

☆『開墾地』グレゴリー・ケズナジャット

1.大まかな話の流れ

日本の大学の博士課程に在籍しているラッセルは、博士論文の審査を前に故郷であるサウスカロライナに帰ってきた。卒業後日本で就職するかこちらに戻るかまだ迷っていた。ラッセルは実の父親とは会ったことがなく、母も家を出ていった今、実家にはシーラージという姓をラッセルに与えた義理の父親(以降「父親」「父」と呼ぶ)だけが住んでいる。父親はラッセルが行ったこともないペルセポリス(世界遺産、「ペルシア人の都」の意)を「我々の故郷だ」と誇らしく言うが、自身は若いとき海外生活を夢見てアトランタに留学したあと住みついたのだった。母方の曾祖父が購入した広大な土地に、祖母が亡くなったのを機会に家族で住み始めて今に至る。短い滞在期間中、仕事の合間に蔓延る葛(くず)の蔦(つた)を刈り、庭を整える作業を怠ることはない父との日々を過ごしながら、ラッセルは自分の来し方行く末を思索する物語になっている。
簡単には受け入れられない家族関係にあるラッセルが、思索の中心に置くのは「言語」のことだ。父はペルシャ語を、自分と母は南部訛りの英語が母語である。絶対的自信を含み、強く訴えるような母親の言葉が自分の中にもあると思うとかすかに恐怖心さえ覚え、母語からぬけだしたいと思っている。また、父親が緊張しながら英語を話すのは、サウスカロライナの住人たちの言葉と「行間にある何かが食い違っている」からだと感じ、父と母、ふたりを隔てる言葉の隙間に自分自身が宙吊りになっているような気もするのだった……

2.感想

冒頭から少し気にかかる表現(「ここ」を特定するまでの意識の移り方)があるものの、流暢な語りは心地よいし、穏やかな人物らしい父と子ラッセルの会話や物腰のために、ラッセルのモラトリアムに安心して浸っていける。前述した「行間にある何か」の存在が作中の数か所(英語を話せることは幸運なことできみは自由だと諭す父、「アメリカと父の国との悶着」、父がときどき観ている故郷の古い映画のシーンなど)で仄めかされるものの、明確な言葉にされてはいない。人間関係がうまくいかなかったり、戦争が起きたりする根本的な原因のひとつになっているものであることは想像できる。誤解、偏見、差別、蔑み……そういったものが個人や土地、国ごとに調合されたり、他のものと化合され、変形されたりしたもの、とでも言えるだろうか。そんなものが取っ払われれば、世の中の不愉快や不穏、争いごとは減るのかも知れないが、クリアにされ得ない「何か」のせいで実際には今現在も多くの人々が戦禍にある。隙間に宙吊りになった自分を感じる一方で、自宅でくつろぐときや庭仕事をするとき、故郷の家族と電話で話すときなどにペルシャ語を、そして日常の生活では慎重に英語を、という具合に言語を使い分ける父の身の置き方をラッセルは好ましいとも思っているようだ。その証拠に「英語に戻ることも、日本語に入り切ることもなく、その間に辛うじてできていた隙間に、どうにか残りたかった」と語る(日本語に対しても南部訛りの英語と同じような居心地の悪さを感じることがあるらしくラッセルは指導教員からのメールを開けないでいたのだった。)「行間にある何か」のおかげでラッセルは隙間に生きるという処世術でも身につけたかのようだ。どうやら自分の行く末が、ラッセルにはおぼろげながら見えているらしいことがわかる。

作品のなかに頻出する「葛の繁殖」(この葛が十九世紀に日本から移植されたらしいと書かれている)は、とても重要な役割をするモチーフとなっている。多元的に捉えることができるような描き方がされていて面白い。蔦をのばす葛の側からみれば、不屈の精神を表しているとも言えるだろう。日本では繁茂しないが、南米の赤粘土には馴染んで蔓をどんどん伸ばしていく葛。
ペルシャを故郷とする父がサウスカロライナで暮らしていくその屈強な精神ともとれるし、夫婦喧嘩すると言葉を浴びせかけるようにする妻の、つまりラッセルの母の容赦ない言葉ともとれる。しかしながら父は、葛を刈ることを含めた庭仕事を忌み嫌っているふうではなく、自分に課せられた作業として、というより趣味のように行い、迫りくる葛から家を守り抜いてきている。ということは、葛を刈ることは父にとって自分の居場所を作る意味があるのかも知れない。自分を守るために不要なものを排除する。当然の行為。だから鼻歌混じりで苦にならないのだろう。

さしあたって切実なものはないから、ただ遅く訪れた青年モラトリアム小説と読めてしまう部分で、物足りないと思う読者はいるかも知れないが、全体的に淡い感じーー色でたとえるなら墨絵のような薄い灰色あるいは抹茶ミルク色ーーに仕上がっていて、私はそれを好ましく感じた。葛藤という言葉には「からみあったカズラやフジの意(『新明解』による)」があり、心のモヤモヤを象徴するために葛の繁茂に目をつけた作者は巧妙で、こざっぱりとした純文学作品に作り上げていると思う。

3.読むときのポイント

隙間に共感できるか


☆『この世の喜びよ』井戸川射子

1.大まかな話の流れ

社会人と大学生ふたりの子どもがいる穂賀(ほが)は、ショッピングセンターの喪服売り場の店員として働いている。かつて子どもたちが幼い頃は、単身赴任している夫を頼ることもできないから、毎日通ってたくさんの時間をやり過ごしたショッピングセンター。「家の二階の窓から、ショッピングセンターの大きなクリーム色の体(からだ)が見えるくらい」家から近いその場所に今は週五日勤務している。同僚の加納さん、ゲームセンターの多田、メダルゲームを楽しむおじいさんなどが登場して、ショッピングセンターのいろいろな売り場が穂賀自身のの回想とともに描かれる。フードコートにいつも長時間座っている中学三年生の少女とは、彼女が年の離れた弟(一歳)の世話を、三人目を妊娠中の母親から期待されるややヤングケアラー的な境遇のせいもあって、子育てのことやら美容やら恋バナやらをするようになり、思い出せないながらも人生の先輩としてアドバイスをしようと試みるが……

2.感想

鳥の巣症候群という言葉がある。育ててきた子どもが大きくなれば、意思の疎通がうまくいかなくなって親としての役目も減り、ふと自分の存在の虚しさを感じる。そんな時期の、母親として揺らぐ気持ちがつらつらと書かれた小説ーなどと紹介したら、おそらく食いつく読者はいないだろう。子育てに苦労している主人公が「あなた」と呼ばれて労われるなんて、そんな自己愛に満ち溢れた文章を読んでも……私は一度読んだだけでは、この二人称小説の効果や意味を見いだせなかった。そう、まんまと騙されたのだった!
もう一度読み始めたとき、語り手が何ものかわかって、この小説に対する印象ががらりと変わった。そして改めて二人称小説は成功しているか否か?と問うたとき、「もちろん、大成功だ」と答えたくなる。私はここで「語り手は何もの」か書くことはしないが、ぜひそれがわかってから(勘が鋭い読者であれば、すぐにわかってしまうのだろうけれど)、もう一度この小説を読むことをおすすめする。作品のなかに散りばめられた、語り手を特定する手がかりを見つけて、ぜひ楽しんでほしい。ひどく大雑把なヒントをあげれば、穂賀の過去も現在もすべてショッピングセンターにおいて語られているということだ。家出した長女(たち)を迎えに名古屋に行ったことも、ショッピングセンターのフードコートで少女を前にしながら回想する形をとっている。語り手を知ったあなたは、温度調節の行き届いた大いなる体に守られているのを、じわじわと感じることができるはずだ。

しかしながら、この二人称小説の魅力は意外な語り手の存在だけではない。その存在はとても魅力的な仕事をしている。一度通り過ぎただけではすとんと胸に落ちない(語り手が何ものかわかるとそう感じる部分はずいぶん減る)絶妙な表現は、するどい人間観察力に基づいた作者の手腕であるわけだが、それを直接見せつけるのではなく、「と、あなたは思った」「あなたにはわかった」などを多用することで語り手にゆだね、引きとった語り手は、目には見えないけれどほんの少しの隙間を作って読んでいる私たちへの衝撃をやわらかなものにする。大した体だ。

少しだけ、「差し引く」という穂賀の思考や行動のくせについて触れておきたい。穂賀がたびたび口にする「差し引く」という言葉を少女は指摘する。「よく色んなものから差し引くんだね」(少女)「世間からの扱いをそう、差し引いたって、……女の体は痛みと出ていく水が多過ぎるよね」(穂賀)、さらに教師をしている長女が追いつめられて家出したことに触れた件で「その泣いたのを差し引いたって、あの子には向いてないんじゃないかって」(穂賀)極めつけは「それってまた何かを差し引いて言ってる?」(少女)この最後のセリフはふたりが言い争いをするシーンのものだが、この穂賀の「差し引く」という思考や行動のくせは、ずいぶん少女の心に引っかかるらしい。差し引いて全部を取りあわない。少女の家のあらゆることは、自分よりも幼い者たちを中心に動いていて、自分のことは差し引かれていると感じているのだろう。穂賀もそういう事情を察知して手を差し伸べるべく近づいたのかも知れないし、同時に自分自身も娘たちにとって不要なものになりつつあると感じている切実な感情がシンクロする。名古屋からの帰りの新幹線に乗りながら「この子の体はもう、一人用の座席にぴったりだ……二人の目にはきっと、あなたの知らない景色が広がっている」と穂賀は思う。

大きな体の空洞を循環する暖かな追い風に背を撫でられるから、これまでも、そしてこれからもあなたは伝えていくことができるのだ。その喜びを共有できたとき、私自身もかつて子育てに追われながら救われた場所があったなあなどと思い出してなつかしさで胸が温かくなった。

3.読むときのポイント

二人称小説の語り手は何ものか


☆『グレイスレス』鈴木涼美

1.大まかな話の流れ

ポルノ業界で化粧師の仕事をしている私(物語の終盤で名前が「聖月(みづき)」だと明かされる)は、樹木に囲まれる築二十年ほどの古い家に祖母とふたりで暮らしている。母は、父と離婚したのに再び父と恋人になって英国に移住したあと今はスコットランドにいる。オペラ歌手を名乗っていた祖母は、母と入れ替わりで古い家に住むようになり、近隣の住人との付き合いや能楽師とデートを楽しむ。一方、職場で聖月は消費される女たちの顔に丁寧に化粧を施す。プレイの撮影が終わるころには体液ですっかり流れ落ちてしまうこともあるが、それでも次の撮影のためにまた淡々と女優たちの面に色を整える……語られるのは無茶と思われるほどのAV女優たちの奮闘ぶりや身の上。新人女優が撮影中にあるトラブルが起き、そのあとで別の女優に告げられたのは……

2.感想

アーチ型の玄関扉、赤い絨毯、書棚の聖書や仏文学の原書の類、壁に掛けられた十字架、無名の作家の油絵……描かれるアイテムも洒落ているならそれをすべて含んで建つ築二十年になる洋風の家はさらに魅力的だ。そこに住む祖母やかつて住んでいた母のアバンギャルドな考え方や生き方にも憧れる。だから、AV女優の汚れぶりと、それに上書きするように「私」が施し直す化粧の技術が事細かに描かれるうち、お仕事小説というようなものに寄ってしまっていると感じて少し残念だった。聖月の仕事部分と古い家の祖母との生活にくっきりとした境界線が見え、話がふたつに分断されてしまっていると感じたのだ。文藝春秋の作品紹介ページには「聖と俗と言える対極の世界を舞台に、性と生のあわいを繊細に描いた新境地」とあるが、ひとつの世界で性と生のあわいを描くのではなく、対極のふたつの世界を舞台にしたために、求心力が失われたのではないか。何となく既視感のあるAV女優たちの境遇、身の上話よりも、魅力的な古い洋館の家と三人(祖母、母、聖月)の生きざまをもっと読みたかった。

とはいえ、終盤近くで、引退する女優との仕事を最優先にするために聖月が示した行動力には心を動かされた。また、ピンクと淡いグリーンと白の正方形のタイルを組み合わせたどこか下宿風の洗面台以外、古い洋風の家にはほとんど色がないと思っていた聖月が、祖母に否定されるシーンも印象的だ。ゆっくり家の中を歩いてごらんなさいよ、と祖母は諭す。人は切羽詰まると目の前にあるものにさえ気づかないほど余裕がなくなってしまうものだ。だから、疲弊して始発の下り列車で帰宅し、聖月の目に鮮やかな家の赤い煉瓦が映り、秋晴れの光が揺れて、雨戸に溜まった水が衣服を濡らしても彼女が心地よく感じたとき、私は安堵した。

3.読むときのポイント

ふたつの世界をつなぐもの



〈後編〉に続く。どうぞお楽しみに。


万条 由衣


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