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きょうのできごと06072023

午後、美容院に行った。ここ数年は半年に1度くらいのペースだったから、3ヶ月ぶりのきょうは、私にしては珍しい。長い髪をばっさりカットして明るめの茶色に染めてもらった。
美容師のみどり(仮名)さんにお願いするのは春以来二度目。猛暑であることと、値上げが影響してか、広いフロアに私を含めて3人ほどの来店状況は、店として厳しい状況らしい。閑散としていたこともあり、みどりさんと話がはずんだ。みどりさんは秋田出身だけれど東京に出てきてからの生活の方が長くなった。盆暮れ正月には帰省して、親戚中が集まってくれば自分はいつしか場の盛りあげ役に徹し、それを自身も楽しんでいたという。そのくせ、父とはなかなか本音を話すこともなく父の仕事に興味を示すでもなく、NHK朝ドラ『半分、青い』を「なんか、重なるんだよ」とつぶやきながら熱心に観る父に「ふーん」くらいしか言葉を返さなかったそうだ。そのことを今、すごく後悔していると話す。
今年の3月に、お父さんは畑に出た切り戻らなかった。病気をしていたわけでもないのに、突然倒れられた。伴侶を失ったお母さんのことも心配だけれど、みどりさんもまだ哀しみのなかにいる。お父さんが亡くなられる日の午前中、みどりさんはWBCで日本が優勝したことをお父さんと電話で喜び合った。いつもは面倒くさいと思っているのに、なぜだかそのときは声を伝えたかったのだ、と私の髪を丁寧に梳く。
みどりさんは今、『半分、青い』をネットで観ているそうだ。上京したみどりさんとの別れ、喧嘩腰に家を出たみどりさんが一人前になるべく悪戦苦闘する姿、お父さんはそんなことを思い出しながらマンガ家志望の主人公とみどりさんを「重ねていた」ことを今は痛いほどわかり、涙が止まらない。宅急便に忍ばせてくれた「お小遣い」も、あの頃以上にありがたさが身にしみる。8月のお盆にはもちろん帰省する予定とのこと。私も去年母を亡くしたので、何となくしんみりとしてみどりさんの声を聞いていた。なかなか都合よく思い出は作れない。そんなことならああすればよかった、こう言うべきだったと胸を痛くするのは、すでに過去へ流れてしまっている。仕方ない。

二度会っただけの美容師さんと、けっこう深い話ができてよかったなあと思いつつ汗をかきかき自宅へ帰っていたら、とつぜん女性の叫び声が聞こえた。「やめてよぉー!」半分泣き声が混じっている。「うるせえ!」と、今度は老女の怒鳴り声。向こうからこちらに近づいてくる車椅子が見えた。10メートルほどの幅しかないが、抜け道になっているため、通過していく車やバイクは多い。それをものともせず、老女はど真ん中を、肩をいからせ、蟹股でどんどん歩いてくる。その腕を掴もうとしている40代と思しき女性は、片手で車椅子を押しながら「ほらあ、車来てるじゃない」「お願いだから、乗ってよ!」女性は懇願するのに、老女は「うるせえ!」と怒鳴り振り切る。老女の身体はまっすぐには進まないから両方向から走ってきた車は立ち往生だ。やめてよ、せめて左を歩いて、みんな迷惑してるでしょう、邪魔になってるじゃない、止まらない女性の悲痛な叫び声、老女の怒声……何もできないで私は、ただ見守るだけだった。ゆっくり歩を進めながら、ふりかえりふりかえり気にしていたら、どうやら根負けしたらしい老女は車椅子に乗って運ばれていた。自転車屋のおじいさんが心配そうに見送っている。知り合いなのかも知れない。
無事に道路の端を行く彼女らにほっと安心しながら、私はなんだかとても悲しくなってしまった。理由はわからないが、涙が出そうになってこらえた。どうしたんだろう、母や父を思い出したんだろうか。自分の感情がどういった具合に動いたのかまったくわからない。老女を憎たらしいとか、しょうがねえなあとも思わなかったし、女性がいくら泣き叫んでもいいと思った。車が大人しく止まってくれていたから、それは何より安心した。
目の前で繰り広げられた一場面が、美容院での会話とつながっている気がして、こんな日もあるんだ、と思う。とくべつなことがなくて、水流のように過ぎていく日が多いけれど、きょうみたいに、泉みたいになって胸の中に静かに保存された思いに到達する瞬間も、人には訪れる。

夜、歯みがきしようと洗面所のライトをつけたら別人がいてぎょっとする。しばらくこんなふうにびっくりし続けるだろうな、なにせ、美容院でざっくり切り取られた髪の束は、誇張じゃないよ、30㎝くらいあった。みどりさんがそれを苦笑いしながら持ちあげていた。「持って帰ります?」「え、いらない」言ったあと、写真に撮ろうかなと思ったけれど、自己愛?じみているし、なんだか縁起が悪そうだからやめたのだった。
あれは魚の死体みたいだった。

万条 由衣

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