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小説の形式 -句読点が少ない小説-

どうして一文を長くするのか

句読点が少ない小説を、読んだことがあるだろうか。句点(。)読点(、)がなかったら、一文が長くなり、ずいぶん読みづらいのではないかと思っている人は少なくないだろう。それでもあえて句読点を省略するのは、どうしてなのか。そこに作者のどんな意図があるのか、書いてみようと思う。

今回は私の乏しい読書経験の中から、ふたりの作家の三つの場面を取りあげる。(以下、敬称略にて失礼いたします)

句読点が少ない小説『春琴抄』

まず、句点(。)も読点(、)も少ない小説として谷崎潤一郎の『春琴抄』を紹介しよう。

春琴の強情と気儘とは斯くの如くであったけれども特に佐助に対する時がそうなのであって孰れの奉公人にもという訳ではなかった元来そういう素質があったところへ佐助が努めて意を迎えるようにしたので、彼に対してのみその傾向が極端になって行ったのである彼女が佐助を最も便利に思った理由も此処にあるのであり佐助も亦それを苦役と感ぜず寧ろ喜んだのであった彼女の特別な意地悪さを甘えられているように取り、一種の恩寵の如くに解したのでもあろう

                       『春琴抄』 P.23 L5~

引用した文章のなかに句点はゼロ、読点はたったの2個しかない。スペースも改行もないので、句点の見当をつけて読み進める感じだ。

『春琴抄』は作者が手に入れた「春琴伝」なる小冊子をもとに語られる。小説のところどころに「春琴伝によれば」とか「春琴伝に曰く」などの文言が見られるから、作者は『春琴伝』から引いてきたことを今ここで語っていると示したいがために、句点を打たない方法で強調したのではないかと推測される。

一方、谷崎潤一郎の代表作にあげられる作品に『細雪』がある。この小説には句読点は普通に打たれていて読みやすく、生き生きとした「船場言葉」による会話が色を添える。『痴人の愛』もまた気安い口調でナオミの魅惑にやられた主人公の実情が面白おかしく語られる。それらと比べれば、先にあげた『春琴抄』のスタイルは異なっていて、やはり残された記録をもとに語るという体裁を整える意味があったのだろう。

ただ物語がクライマックスを迎えてからは、読んでいるのに、息をつく暇もないといったふうな調子で語られる講談を聞いているような気分になるから、作者の気持ちの昂ぶりといったものが、少なからずそこにはあるのかもしれない。

金井美恵子によるエクリチュール

句点(。)が少ない作家といえば、何といっても金井美恵子である。どれほど長いかと言えば1ページにただの1つも「。」がないのは金井の作品においてはもはやあたりまえのスタイルとなっている。初めて『軽いめまい』を手にしたとき、こちらこそ軽いめまいを覚えたほど、その長いセンテンスに舌を巻いた。最初のうちはただ文字を追うのに精いっぱいで、いつのまにか、何について語られていたのかすっかりわからなくなる、といったことが繰り返されるのだが、句点がない文章にもしだいに慣れてくる。

次から次に飛び移ってしまうように見える文字のつらなりも、主軸となる部分は必ずある。それをしっかり頭に固定しておいて、あふれてくる文字たちを寛容な心で迎えつつ背景へ並べていき、再び主軸を引き出してきて句点で閉じる。そんなくせのある方法で読むくせ(!)がついてくる。読み終えても、しばらくすればまたあのくせに巻かれたくなってしまう。金井美恵子の作品群にはそういう麻薬的な魅力がある。

彼女は自分の作品を「エクリチュール(フランス語で書くこと、書かれたものを意味する)」であると言う。小説というよりエクリチュール。『カストロの尻』(2017年)、『スタア誕生』(2018年)に至って、そのスタイルは完璧に洗練されている。

次に引用するのは『スタア誕生』の一部だが、途中省略しなければ1ページ強の分量になる部分で、その間、句点はひとつもない。

台所にこもったぬか床や鍋に焦げついた煮魚や煮干しの出汁の大根の味噌汁と仏壇に飾られた菊の香りとお線香と便所の臭気と住人の女たちが髪や肌に付けている化粧品の香料やパーマネントの薬剤の匂いや、(中略)貧しい住みなれた部屋が、小説を読むと、イタリアのパルマ(匂いスミレで名高い町なのだと長女は言う)にすっかり変って(中略)もちろん、何年か前に見た『パルムの僧院』(天然色の『赤と黒』と違って黒白映画だったけれど)の方が、ジェラール・フィリップが出ているし、大筋のところ筋だってずっとわかりやすい(中略)なかなか肝心なことを書きすすめない小説の作者に―もう、とっくに十九世紀に死んでいるのに―咎め立てられているような気がするのもいやだし、映画だったらはじめから終りまで、長いとは言っても二時間二十二分ですむところを、こうやってもう何日も何日も読んでいるのに、長編小説というのはなにしろ長すぎていつも途中で眠くなってしまうと言うのだ。

                       『スタア誕生』P.157 L4~

生活臭の濃い台所からイタリアのパルマに飛び、映画に比べて長編小説というのは眠くなると愚痴るに至るその目線の広がり具合は、じつに鮮やかである。この「目線の広がり」こそ、作者が意図したものではないだろうか。

金井本人によって明かされたテクニックも紹介しよう。2018年4月28日(土)ジュンク堂書店池袋本店で催された『スタア誕生』刊行記念トークセッションにて、金井は自身の小説の一部を引用し、「時間を自由に使」っている点に触れている。金井によって引用された部分は以下のとおり。

今になってみれば、私は、菊子の話しの中の彼が夜中のフートンの扉を開いて出て来た緑色のハイヒールのパンプスをはいたフード付きマントを着た女を、本の中で(一九世紀に書かれた本の中の、一八世紀に生きていた若い印刷屋の女遍歴の自伝的物語の中で)知っていると断言できるのだが、今はまだ、私たちは枕元の鉄製のローソク立てに刺して青でカエルの絵を描いた皿においた微かな空気の流れに反応してゆらめくローソクを吹き消してもいないし、雨戸をしめきった家の中には今夜はつけていないのに、蚊取線香の匂いが染みついていて、夕飯のカツオのすりながしの匂いや菊子が顔と首と胸につけている甘ったるいクリームの匂いが混りあって揺れ動き、ローソクの芯の燃えるGの響きが続く微かな音がする。

                                                                                『カストロの尻』P.108 L5~

引用部分冒頭の「今になってみれば」の「今」と、中ごろの「今はまだ」の「今」が同じ時点ではないと、金井は指摘した。「今」という時間をわずか1ページの内に重層的に存在させているというのだ。長い文章のうねりに巻き込まれた読み手は、ふとした気のゆるみで時制を、時間軸を失い、広い贅沢な空間を彷徨うことになる。もちろん、意図した作者にはすべてお見通しというわけであろう。

巧みな文章は小説に必要なのか

どうして作者は、あえて句読点を省略し一文を長くするのか。
引用した部分は少ないが、そこには何かしかの作者の意図や企みがあることがわかったかと思う。

その上で、あえてこんな疑問が湧いてこないだろうか。
「それは必要か?」小説は登場人物がいて物語があって、話が面白ければそれでいいじゃないか。

その通りだと思う。でも、恋愛小説が好きな人、ミステリーが好きな人、と同じように、文章の妙を楽しむことが好きな人だっている。ストーリーはこれからも数限りなく出現して、人生に何かしかを与えるだろう。新しい形式もまた、読んだことがない未知の小説を体感できる空間へ、私たちを導いてくれる。


「形式はその小説がその小説たるゆえんである」
そんな仮説を抱きながらこの記事を書きはじめたが、たぶんそうではなくて、「形式はその小説が要求するもの」なのかもしれない。


万条 由衣


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