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韓国の旅  #14


ソウルから仁川へ 2014年

 2014年には、ソウルと仁川(インチョン)に行った。ソウルは約1年8ヶ月ぶり、仁川は、空港以外では、初めての訪問だった。当時、しばらくソウルに行っていなかった間に、韓国は朴槿恵政権となり、安倍政権との間で、日韓関係は最悪の状態に陥っていた。もう、日本における韓流ブームは過去のものとなり、韓国を訪れる日本人観光客は激減、それに代わって、中国人旅行者が急増していた。私たちも、ソウル滞在中に多くの中国人の団体と遭遇した。ちょっと垢抜けない、短パン姿が多かった。そして、団体で行動していて声が大きいから、どうしても目立つ。私たちがソウルを訪れた10日ほど前には、習近平主席夫妻が、中国の国賓としては初めて、ソウルを訪れ、韓国の国民やメディから大歓迎を受けた事は、記憶に新しいところだった。中国の最高指導者が、北朝鮮よりも先に韓国を訪れるなんて、しばらく前までは想像もできないことだった。

 中国の攻勢の前に、韓国は、アメリカを離れて、かつての宗主国である中国の陣営に加わるのか?そんな極論が、もう極論とは言えなくなっている。東北アジアの情勢は、日々、流動している。私たち夫婦は、そんな時期にソウルへ行ったわけだが、もちろん、一旅行者に過ぎない私たち夫婦には、そんな政治の話はまったく関係がなかった。大都市ソウルは、日々変貌しているが、旅行者にとってのソウルは、ちっとも変わっていなかった。もちろん、こちらが日本人だからといって意地悪されることもない。私たちは、なじみの街のあちこちを、今回も、大いに楽しんで来た。

 昼前に関空を離陸したJAL機は、2時間も経たない内に、ソウル金浦空港に着いた。先月のシンガポールと比較すると、その近さに今更ながら驚く。今回は格安ツアーである。今までのツアーでは、空港からホテルまで、現地ガイドに連れて行ってもらったら、後は自由時間だったのだが、今回は、チェックインを済ませてから、ロッテ免税店へ連れていかれた。そこで目撃したのが、噂通りの、中国人観光客たちによる喧噪だった。なるほど、こんな風になっていたんだ。というわけで、早くも、時代が変わったことを実感した。

 予定の時間が来て、(上階の喫茶店で時間つぶしをしていたので、もちろん、何も買わなかった。)午後3時過ぎに免税店から解放された私たちは、早速、近くを散策することにした。目指したのは、光化門の近く、アメリカ大使館の隣りに出来た新しい施設「大韓民国歴史博物館」である。韓国初の国立近現代史博物館だそうだ。地上8階建ての建物に4つの常設展示室と2つの企画展示室がある。以前は、文化体育観光省の庁舎だったものをリニューアルした。常設展示室に入るのは無料だった。

 私たちが入館した時、高校生か大学生か、中国人の一団が見物していて、ガイドが中国語で説明していたが、展示物には、韓国語と英語の説明文がついているだけで、中国語も日本語もなかった。でも、朝鮮半島の近現代史の知識が少しでもあれば、だいたい、何が展示されているかは、説明を見なくてもわかった。中国の若者たちは、韓国の歴史をどの程度学んでいるんだろう。そんなに興味がなさそうに見えたが。私たちは、ざっと一巡してから、大統領執務室を再現した部屋で、歴代大統領の肖像画の前で記念撮影をしてから館を後にした。その部屋の窓からは、景福宮とともに、現代の朴大統領が執務する、青瓦台の建物も見ることができた。

 歴史博物館からホテルに向かう途中、「教保文庫」に立ち寄った。韓国最大の書店である。私は、一日に一度、書店に行かないと気分が悪くなるほどの本屋中毒なので、海外旅行中であっても、機会があれば必ず書店に立ち寄ることにしている。「教保文庫」にも、今までに何度も来た。残念ながら、まだまだ韓国語の文章を自由に読みこなせないので、本を眺めて歩くだけである。さすがに、ここには、日本のジュンク堂書店に負けないくらいの本があった。日本の大型書店の中には、「嫌韓本」のコーナーをつくるなどという、商業主義に陥った、志の低い書店も存在するのだが、この書店には、反日本のコーナーなどは存在しなかった。それどころか、日本の小説(もちろん、韓国語訳)を集めたコーナーが、他の外国の翻訳小説のコーナーよりもずっと広いスペースを占めているのである。韓国では、国内産の小説よりも、東野圭吾をはじめ、日本のミステリなどの方がよく売れているのだ。店内を見る限り、韓国にも本好きは多い。

 前回まで、私たちが夫婦でソウルを訪れた際には、新羅ホテル、ウエスティン朝鮮、ロッテホテル、プラザなど、高級ホテルに宿泊してきたのだが、今回はビジネスホテルにした。「ベストウエスタン・ニューソウル」という。市庁の裏手にあって地の利が良く、旅慣れた日本人観光客にも評判の良いホテルだった。少々古いし、部屋は狭いが、設備もサービスも悪くなかった。なによりも、気楽なのが良い。でも、その魅力の第一は、やっぱり、そのロケーションの良さだった。これは、最終日の出来事なのだが、私たちは、金浦空港まで送ってくれる現地ガイドをホテルのロビーで待っていた。その時、中国人女性が二人、カウンターで、男性スタッフとなにやら交渉を始めた。女性の一人は、明らかに、整形大国である韓国で、顔の整形手術を受けたばかりである。どうやら、手術前後に、このホテルに滞在しているらしい。(最近、そういう中国人観光客が増えているらしい。でも、入国時と出国時に顔が変わっていたらどうするんだろう。指紋を確認するのかな。)

 私の現在の中国語の能力では、彼らの会話の内容を確認することができなかったのは残念だ。でも、それでわかった事は、ホテルのカウンターの男性スタッフが、日本語だけではなく、中国語も流暢だったことだ。(たぶん、英語も堪能だろう。)ここが、大きなホテルではなかったから、正直のところ驚いた。日本で、このくらいの規模のホテルだったら、スタッフの外国語の能力は、どの程度のものなのだろう。ここまでのレベルではないと思う。韓国のシティホテルは、あなどれない。

 いったん、ホテルの部屋でくつろいだ私たちは、夕食をとるために外出した。ホテルから5分も歩けば、おいしいと評判の店がいくつもあった。大阪で言うと、梅田の東急インあたりに泊まった感覚だろうか。周囲は、仕事帰りのサラリーマンで賑わう飲食店ばかりだから。さて、この夜、ソウルに30回近く来ている家内の案内で、私が向かったのは、「ムギョドン・プゴクッチプ」という店だった。「プゴ」というのは、干しスケトウダラのことだという。この店は、プゴのスープで有名な老舗だった。メニューはこの一点のみ。だから、席に着くとすぐ、注文せずとも料理が運ばれて来た。子供の頃、塩味の効いたスケトウダラは、ご飯のおかずに最適だったものだが、初めて食べる、スケトウダラのスープは、なにやら懐かしい味がした。美味だった。

 ここで、セウォル号のことについて触れておきたい。ホテルのすぐ近くにある市庁前の広場には、今も、献花台などの慰霊施設があり、黄色いリボンでいっぱいだった。今は図書館になっている、旧市庁舎の建物の壁面には、「最後の方が見つかるまで」と書かれた大きな看板があった。まだ、この事故(事件)では、10名が行方不明である。旅行から戻ってから、最高責任者だとされたユ会長の腐乱死体が、先月見つかっていたという報道がなされたが、この事件をめぐる一連の官憲の動きには、サボタージュとしか思えない、信じられないような事が多すぎる気がする。外国のことではあるが、怒りを覚えるほどだ。黄色いリボンは、市庁前広場だけではなく、観光客が多く訪れる、清渓川などにもあった。この事件が韓国民に与えた衝撃はとても大きいし、まだまだ終わっていない。私たちは献花は遠慮したが、(あまりに観光客っぽいスタイルだったから。)献花台に拝礼だけしてきた。高校生が数百名も水死したなんて、今思っても、痛々しすぎる。(中東などでは、今現在も、子供達が大勢、爆撃で殺されているわけだが。)

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 第二日目。今回の宿泊には朝食は付いていないので、どうしようかと考えたのだが、結局、ホテルの二階にある、「松竹」というお粥の店で食べることにした。食べたのは、お店推奨の、あわびのお粥だった。なんだか人口着色ぽい、鮮やかなグリーン。外見はよくないし、あわびの量も少なかったが、久しぶりに食べるお粥は、まあまあの味だった。この日は、仁川に行く予定だった。仁川といえば、今では、国際空港のある街というイメージだろうが、昔から、ソウルの玄関口にあたる港町として栄えた場所で、私たちの世代では、朝鮮戦争時における、マッカーサーの仁川上陸作戦で有名だった。つい最近の出来事では、済州島に向かったセウォル号が出発した港が仁川港だった。ただし、私たちが行こうとしていたのは仁川港ではない。仁川に建設中の未来都市「松島(ソンド)」地区だった。ここに、最近、「あべのハルカス」より5メートル高い、韓国最高層のビルがオープンしたと聞いて、それを見物しに行こうというのが、目的だった。それに、今秋、アジア大会が仁川で開催されるということなので、仁川がどんな街か、見ておこうと思ったのである。

 地下鉄でソウル駅に出た私たちは、空港行きの電車に乗って、仁川空港へ向かった。この電車は、途中、金浦空港にも停車するから、ひとつの路線に二つの国際空港があるという、珍しい路線だった。便利だが、新しい路線だから、ソウル駅から、はるか深くに潜った所に駅があった。長いエスカレーターを何度か乗り換える。私たちは、節約のため、直行ではなく、普通電車で仁川空港に向かった。乗車賃は半額だが、二倍も時間がかかるわけではない。仁川空港から松島行きのリムジンバスに乗った。1時間に1本ほどしかない路線だが、それでも、そのバスに乗車したのは、私たち夫婦ふたりだけだった。もし、私たちが乗らなければ、このバスは、運転手と空気だけを乗せて出発したのだろうか。というわけで、私たちは、大型タクシーに乗った気分で、快適なドライブを楽しむことができた。仁川空港は、永宗島という島につくられた空港だから、本土とは橋で結ばれている。ソウル方面に行く時に通る橋は、永宗大橋と呼ばれている。今回、仁川の松島地区へ向かう時に通ったのは、その橋ではなく、仁川大橋だった。橋と呼ぶにはあまりにも長く、しかもカーブしているので、海の上の高速道路と呼びたくなる橋だった。全長は、橋梁部分だけで、18キロメートル以上あるという。関空の連絡橋が4キロ未満だから、その途方もない長さがわかる。当然ながら、工期は4年間もかかったそうだ。この辺りの海は浅いので、このような橋の建築が可能だったのだろう。

 松島(ソンド)地区(正式名称は、松島国際都市。韓国のドバイと呼ばれているそうだ。)は、人工の新都心特有の、ちょっと荒涼とした雰囲気を持つ街だった。整った街並ではあるが、歴史がないから、生活の臭いがない。かつて私が住んでいた大阪の南港も、神戸の人工島のニュータウンも、かつては(今も?)こんな感じだった。リムジンバスは、「松島パークホテル」の前で止まった。終点である。ここでバスを降りた私たちは、ホテルに入った。近くには食堂らしいものは何もないので、ここで昼食をすまそうというわけだ。閑散としたホテルだった。レストランらしい所に入ったが、客は私たちだけだった。ちょっと不安だったが、出て来た料理はさすがにホテルらしいものだった。私は、サーモンステーキを頼んだのだが、ちゃんとした料理だった。家内はビビンパを食べた。そちらも、とても美味しかったそうだ。

 松島の旅は、そのように順調に始まったのだが、これからがいけなかった。目当てにしていた、韓国最高層ビル「北東アジア貿易タワー」は、まだオープンしていなかったのである。ビルの中のレジデンスのようなものはオープンしていた。しかし、その他の部分は何もなかった。壁面のガラスを拭くおじさんがいただけで、どのドアも閉まっていた。できれば、ビルの展望台に上がって、仁川市街を一望しようと期待していた私の意図は、もろくも潰えた。すっかり意気消沈した私たちは、ビルの横にあったロッテマートを見物しただけで、仁川市内の散策もせず、そのまま地下鉄と空港鉄道を乗り継いで、ソウルに戻ることにした。

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 ソウルに戻った私たちは、今回の旅行の一番の目的だった場所に向かった。東大門である。現代建築のファンでもある私が、工事中から気になって、何度か建築現場を見学した施設、東大門DDPがやっと今年完成したのだ。そのニュースを知った私は、一刻も早く見物したいと思っていた。いよいよ、写真ではなく本物を見られる。私は、ソウルに着く前からワクワクしていたのだが、あえて2日目、それも仁川の後に訪れることにしたのである。この施設は、今、日本で建築界を超えて大きな議論を呼んでいる、東京の新国立競技場案を設計したザハ・ハディットの最新の作品でもある。彼女の作品は、どこでも賛否両論なので、この東大門デザインプラザも、本来ならば、もっと話題になってもよかったのだが、例のセウォル号事件の影響なのか、思ったほどではなかった。

 地下鉄2号線の「東大門歴史文化公園駅」で改札を出ると、シャレた地下商店街ができていて、その商店街を抜けると、目の前に、銀色に輝く、着陸した宇宙船のような形状の東大門デザインプラザ(DDP)が現れた。この地下商店街そのものが、DDPの一部だったのである。私たちは、完成予想図を何度も見ているから、今更、その形には驚かないが、そのスケールの大きさには、少し驚いた。とりあえず、この不思議な建造物の周囲を歩いてみる事にした。既に話題になっているように、この建物には窓がないので、いったい何階建てなのかも、外からはわからない。私たちは、スロープ状になった通路をあがったり降りたりしながら、この建築物を外部から観察した。そう、今日の見物は外観だけと決めていたのである。中に入るのは明日。今日は、すぐ横にあるDOOTAで、家内のウインドウショッピングにつきあう予定だった。そして、そこにある喫茶店で夜になるのを待ち、DDPの夜景を楽しむつもりだった。でも、残念ながら雨になり、喫茶店の窓に水滴がついて、夜景の写真を奇麗にとることはできなかった。その夜は、乙支店路入口まで地下鉄で戻り、ロッテ・デパート地下のフードコートで、豆腐チゲとパジョンで夕食を済ませた。ロッテ・デパートも、今回の私たちのホテルからは、徒歩圏だった。

 第3日目。この日の朝食は、明洞で食べることにした。ホテルから明洞までは少し距離があるが、徒歩である。この辺りは、今までに何十回と歩いた所だから、自分の街のようなものだ。だから、いつもと違う裏道を歩いてみた。おかげで、家内は、懐かしい店を発見することができた。それは、また別の話。明洞で家内が案内してくれた店は、「神仙ソルロンタン」の支店のひとつだった。今では懐かしい、私の贔屓の女優、ハン・ヒョジュ(トンイを演じた女優。)が主演したテレビドラマ「華麗なる遺産」の舞台になったチェーン店である。店内には、そのドラマのポスターがまだ貼ってあった。ドラマのロケ地めぐりは今でも盛んだから、かつては、日本人の観光客も多くやってきたのだろう。ソルロンタンそのものは単純な料理だが、スープにコクがあって、なかなか美味しかった。

 最近は、日本人観光客が減って中国人が目立つと言われる明洞は、夕方から夜にかけて賑わう街だから、朝は閑散としていた。朝食を済ませた私たちは、地下鉄4号線の「明洞」駅から地下鉄に乗り、ひとつ先の、「会賢」で降りた。この駅は、南大門市場の最寄り駅である。まず私たちが向かったのは、「崇礼門(南大門)」だった。韓国の国宝第一号だったこの門が、放火で焼失したのは、2008年のことだった。ようやく再建工事が完了して公開されたのは、昨年のことである。その後も、建物にひび割れが出来たとか、彩色がはげ落ちたとか、いろいろと批判の的になっていた事は、日本にまで伝わってきた。韓国には、文化財をちゃんと修復できる専門家がいないのだろうか。とにかく、現地へ行って、この目で確認してこようと思った。

 南大門は、周辺に公園も整備されて、すっかり奇麗になっていた。見物に料金はいらないが、警備員が常駐していて、なかなか警戒厳重だった。あちこち観察してみたが、もう修復が済んだのか、特に、ひび割れ箇所などは見つからなかった。彩色も美しい。まあ、ひと安心である。もともと、日本人の私が心配することではなかったのだが。家内が、せっかく南大門市場に来たので、ここで土産の文房具を買いたいというので、あちこち探して(ここで家内のハングルが役に立った。)、やっと店を見つけた。そこでわかった事は、この市場で務めている人は、何の店がどこにあるか、だいたい知っているということだった。これだけ広大な市場なのに、偉いものだ。

 さて、そろそろ昼時になった。ちょうど良い機会だから、まだ行ったことがない、ソウルの「鼎泰豊」で昼食をとろうと、郵便局の近くまで歩いたのだが、あるはずの店がなくなっていた。(近くのビルに移転していたようである。)仕方なく、新世界百貨店の地下フードコートで食べることにした。新世界百貨店のフードコートは、ロッテ百貨店のフードコートと、全く雰囲気が違っていた。まず、閑散としている。ロッテが大衆食堂の喧噪を思わせるのに対して、新世界は、取り澄ました高級レストランの雰囲気だった。フードコートだから、複数の店が出店しているのだが、従業員はみんな、シックなお揃いの制服を着ていて、そろいも揃って、若い美男美女なのだった。おじさんやおばさんの従業員も元気に働いているロッテと対照的だった。ここで、私たちは、黒米を使った、なにやらおしゃれで健康的に見える鶏肉の料理を食べた。上品な味だった。

 早めの昼食を終えた私たちは、東大門へ向かった。今回は、DDPの建物の中に入るつもりだった。ところが、この巨大な建物は、どこから入っていいのか、よくわからなかった。案内所があったので尋ねてみた。日本語である。受付の若い女性は、ちゃんと日本語ができた。日本語のパンフレットはないという。でも、建物の内部を一巡してみたいというと、エレベーターのある入口を教えてくれた。空が見えるので、気がつかなかったが、案内所のあるのは地下2階だった。エレベーターで1階に上がれば、無料のデザインラボを見学できるというので、まず、1階へ行くことにした。

 デザインラボを一巡した。東大門DDPのDのひとつは、デザインのDである。ここは、優れたデザインの韓国製品の展示場になっているようだった。確かに、シャレたものが多かったが、一度、ざっと見たらおしまいだった。エレベーターで4階にあがった。そこは、昨日、私たちが、屋上の芝生広場を上がってきたところだった。昨日は、終了時間を過ぎていたので、中に入れなかった。今日は、内側から同じ場所に到達したわけである。そこが、DDPの胎内体験のスタート地点だった。ルートはふたつ。螺旋階段とスロープの通路である。いずれも窓がない、真っ白な空間だ。私は、昔見たSF映画の、ミクロの決死隊員になったような気がした。ミクロ単位に小さくなって、病人の腸や血管などの体内を探検するのである。DDPの内部は、外観と同じく、SF的な空間だった。つまり、人間的な暖かみのない空間だった。さて、この建物は、これからどういう風に利用され、人々の生活に馴染んでゆくのだろう。私は、あまり期待できないなと思った。

 今回、私たちが見学しなかったアートホールでは、中国でも大ヒットしたという韓国ドラマ、「星から来たあなた」の展覧会などが開催されていた。情報がないが、このドラマが日本で放送されるのはいつだろう。これに主演している女優、チョン・ジヒョンは私の贔屓の女優なので、(気が多い。)早く見たいものだ。でも、この施設でテレビドラマの展示会というのは、どうなんだろう。「星から来たあなた」だから、それで良いのかな。同時開催の、もうひとつの催事もSFっぽかったし。この日の夕食は、再び、明洞に行って、「明洞餃子」でマンドゥを食べた。以前から日本人観光客の間で有名な店だが、私は、初めてだった。これだけで、腹一杯になった。(2020年の註:その後、「星から来たあなた」を見ました。チョン・ジヒョン、最高でしたね。「愛の不時着」もそうだったけれど、こういうドラマをつくらせると、韓国は実にうまい。役者の力量もあるのかな。)

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 7月19日。早くも、3泊4日の旅行の最終日である。午後の便でソウルを経つので、ソウル滞在は、後半日を残すだけだった。ホテルでアメリカン朝食という、昔懐かしい、トーストとハムと卵に珈琲というセットの朝食を食べた後、ホテルをチェックアウトした私たちは、荷物をホテルに預けて、街に出た。今回も徒歩である。行く先は、ソウルに来れば、特に目的がなくても、必ず訪れる仁寺洞(インサドン)だった。しかし、私たちは朝早く来過ぎたようだった。まだ開いていない店が多い。特に、家内が、来訪の目的にしていた「サムジキル」がまだ閉まっていたので、その向かい側にあった、お茶の店の2階喫茶店で時間待ちをすることにした。この店は、OSULLOCと言って、韓国通の家内によると、有名な店なのだそうである。家内は緑茶、私は抹茶ラテを頼んだ。甘かったので、結局、半分は家内に飲んでもらったが、上品な甘さではあった。

 その後、雑貨店が集まるショッピングセンターである「サムジキル」を一巡したが、結局、何も買わなかった。中国人観光客は、ここでも多かったが、仁寺洞に来る中国人は、比較的上品な人が多いようである。気のせいかもしれないが。私たちが、初めて仁寺洞を訪れた10年程前には、「サムジキル」はまだなかった。でも、その時すでに、美術品や骨董の町という、かつてのイメージも薄れつつあったように思う。現在、第二、第三の「サムジキル」の建設があたりで進んでいるようだ。仁寺洞もこれから益々変貌していくのだろうが、今の、かろうじて残っている、文化的なイメージは消えてほしくないなと思う。それは、日本の京都に対する思いとも共通している。

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 最初に書いたように、今回の旅行は、韓国の建築をめぐる旅行でもあった。今までのレポートでは、仁川の松島と東大門DDPを紹介したが、最後に、今回の旅行中に印象に残った建物を二つ記録しておきたい。一つ目は、鐘路タワーの向かい側に新しく完成した、「グラン・ソウル」という、二つの大きなビルが連結された、ビジネスと飲食店の複合センター。施設の一画に「食客村」という、かつてこの辺りに存在したという「ピマッコル(裏路地の飲食店街)」を再現した飲食店街があった。読んだことはない(映画は見た)が、「食客」という、グルメ漫画に登場する有名店を集めたという。残念ながら、どの店にも行列ができていて、今回、私たちは入れなかったのだが、地下にも広い飲食店街があった。ビルの上層部は、大企業のオフィスが入居するビジネス街である。ここはたぶん、東京のなんとかヒルズに相当する、首都ソウルの新名所なのだろう。もうひとつは、「D-Tower」というカラフルなビル。教保文庫のビルの隣に、まだ建設中のビルである。何のビルかわからないが、その、積み木を重ねたような、デザインが気に入った。次回ソウルに行ったら、見物しに行こうと思う。こうして、建築ファンの楽しみはつきない。

 最期に余談。今回泊まったホテルの道路向こうには、大きな銀行のビルがあった。なにやら労働争議があったようで、ビルの裏手には赤旗が林立し、赤い鉢巻きにスローガン入りのゼッケンをつけた人達が、泊まり込みをしていて、それを大勢の機動隊員が見守っていた。近くには、機動隊のバスが数台停まっていた。金曜日の夜、夜の清渓川を見物しようと、その銀行の玄関側に回った私は、思いがけない光景を見た。ステージらしきものが出来ていて、ギターを持った歌手らしき人が三人、コンサートをしていたのである。観客は、数百人はいると思われる、赤鉢巻きの男女だった。みんな歩道に座って一緒に歌っている。交通の整理のためなのか、監視のためなのか、周囲には大勢の機動隊員が静かに見守っていた。驚いたのは、争議(あるいはコンサート?)に参加していた人達の歌声である。かつての六文銭などのフォーク・ブームの時代を思わせる、軽やかで見事なハーモニーだった。とても労働歌だとは思えない、爽やかなコーラスだった。韓国の人達は気性が荒く、労働争議も過激だと聞いたことがあるが、こんなに統制のとれた活動もできるのだと感心した。ここが大手の銀行だからだろうか。

 いずれにしても、韓国は、あるいは韓国人は、などと知ったかぶりをしないことだ。どの国にも、いろいろな人がいる。そして、一人の人間の中にも、いろいろな人格が混在している。今回の旅行中、内田樹さんの「呪いの時代」という文庫本を読んでいた。現代は、ネット空間などに呪いの言葉が氾濫している時代である。日本においては、大きなメディアにおいてさえ、韓国に対する「呪いの言葉」が商品として流通している。内田センセイは、今、私たちに必要なのは、呪いではなく、祝福の言葉だという。他人や他国を呪う言葉は、いずれ自分自身にかえってきて、自身の生命力を衰えさせる。祝福の言葉は、自分の周囲を、そして自分自身の生命力を活性化するのだ。その通りだと思う。とりあえず、嫌韓派の人には、韓国旅行をすすめたい。まあ、ソウルに何年も住み、韓国語が話せる人が、極端な嫌韓派になった例も知っているんだけれどもね。そういう人は、人間関係に失敗したりして、どこかで呪いの言葉を吐き、悪霊に憑かれてしまったのだろう。そう、あのダースベーダーのように。

(2020年の註:このコロナ禍の状況では、韓国に行きたくてもいけませんね。考えてみると、私は、この時の旅行以来、ソウルに一度も行っていない。来年はいけるのかな。)

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