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韓国の旅 #1

旧朝鮮総督府 1993年 

 今月(2020年9月)、韓国に関する新書を2冊読んだ。黒田勝弘さんの「反日VS.反韓」と春木育美さんの「韓国社会の現在」。黒田さんは、もう在韓40年になるそうだ。現在の肩書きは、サンケイ新聞のソウル駐在客員論説委員。この人の著書は数十年前から愛読している。やはり、韓国を内側から長年観察してきた人の文章は説得力がある。でも、書いている内容は、最近数多い、「嫌韓商売」人たちやネトウヨとあまり違わない。でも、黒田さんは、「妄言記者」などと攻撃されながら、身を危険にさらして、韓国内で、長年、日本の立場を主張してこられたのだから、他の嫌韓言論人とは区別している。それに対して、春木育美さんの著書は、今回初めて読んだ。ネットの情報では、50代の気鋭の政治&社会学者で、現在は、早稲田の韓国学研究所に席をおいておられるようだ。女性研究者として、ジェンダー問題にも取組んでいて、この本でも、韓国のベストセラー小説「82年生まれ、キム・ジヨン」について、かなり長く触れられていた。その他にも、「韓国社会の現在」は、数多い事例やデータを元にして、冷静に、現在の韓国社会を分析していて、とても勉強になった。春木さんが言うように、韓国と日本は、貧困や格差など、似たような問題を抱えていて、韓国の方がより対策などが進んでいる分野も多い。日本としては、互いにいがみ合うよりも、大いに学び合い協力すべき間柄なのだ。特に、韓国のデジタル化を紹介した章など、日本とのあまりの違いに気が遠くなった。今回のコロナ禍で明らかになったように、日本が圧倒的に後進国なのである。いずれにしても、今の韓国について知ろうと思えば、読むべきは黒田さんの著書ではなく、春木さんの本だろうと思う。なお、今回、この両著書に共通している話題が、米国アカデミー賞を受賞した映画「パラサイト」だったのが、興味深かった。

 さて、いきなり本の話から始めてしまったのだが、これからしばらく連載しようとしているのは、私が過去に何度か、韓国に旅行した時の思い出をつづった旅行記です。実は、私たち夫婦は、今回のコロナ騒動ですっかり有名になったクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」に過去2回乗船していて、今年は、6月に、神戸から高知、鹿児島を経て、釜山に行くコースでクルーズ旅行をする予定だった。当然ながら、クルーズはキャンセルになった。いったい、いつになったら海外旅行が再開できるのかわからない現在、一度、これまでの私(と妻)の「韓国旅行体験」をまとめてみようと思ったというわけだ。まあ、一種のヴァーチャル旅行ですね。これまでの私の韓国との関わりについては、「チョン・ヤギョンなんて知らない」という小説の形で、この「note」に投稿してあるので、興味のある人は、それを参考にしてもらうとして、さっそく、紀行を始めましょう。時間は、27年前にさかのぼる。当時、長かった軍事政権を経て、金永三大統領の民主政権が発足したばかりだった韓国は、その5年前の盧泰愚大統領時代に、アジアで2番目の五輪開催を成功させ、先進国に向けて発展を続けていたが、当時の名目GDPは日本の10分の1以下だった。(現在は、約3分の1。一人当たりだと、ほとんど並ぼうとしている。いや、もう韓国が上なのかな。)そんな、1993年8月に、伊丹空港を飛び立った私と妻は、2時間ほどのフライトの後、ソウルの金浦空港に無事着陸した。

 当時は、関西空港も仁川空港もまだ存在していなかった。私たち夫婦にとっては初めての韓国である。私たちは、どちらも既に40代に入っていた。子供のいない、共稼ぎの夫婦だった。ヨーロッパやアメリカ東海岸など、何度か一緒に海外旅行をしたが、今回の韓国行きを提案したのは私だった。気乗りのしない妻は渋々了々した。韓流ファンになり、韓国語を熱心に勉強している現在の妻の姿からは考えられない。というのも、今の若い人たちには想像もできないだろうが、韓国は、ながらく、夜には戒厳令がひかれる軍事独裁国家で、日本から韓国に旅行する人間は、「妓生(キーセン)観光」と呼ばれる、すけべーな男たちの買春旅行のみという時代が続いていたのだ。それが、ソウル五輪の数年前くらいから徐々に変化して、この旅行の前に私が熱心に読んだ、1988年発行、アサヒグラフ編の「韓国再発見」という文庫本のあとがきに「韓国への旅行者は年ごとにふえつづけている。女性のひとり旅も今や珍しくはなくなった。韓国を扱った単行本も書店にあふれんばかりだ。韓国への関心の高まりは空前といっていいだろう。」と書かれる状況にまで変化したのだった。それでも、我が伴侶に韓国旅行を納得させるのは簡単ではなかった。繰り返すけれど、現在の韓流ファンの妻と、あの時に彼女は同じ人物だったのだろうか。まあ、当時、韓国への関心の高まりは「空前」だったかもしれないけれど、一般的には、まだまだ低かったということだろう。

 私たちが申込んだのは、「ソウル・慶州・釜山 三泊四日の旅」だった。団体旅行に参加するつもりだったのだが、空港に着いてみると、参加者は私たち夫婦だけだった。40代くらいの女性のガイドが迎えに来てくれていた。二人だけのツアーだったせいなのかわからないが、運転手付きの専用車はなかった。ガイドを含めた私たち三人は、空港からタクシーで移動した。最初に向かったのは、その日の宿泊先でもあったロッテホテルである。チェックインの手続きをし、荷物を預かってもらった後、隣のロッテ百貨店のレストラン街に連れて行かれ、ビビンバの昼食をとった。韓国人たちが大勢いる中で、私たち二人だけ残されて、心細くて、料理をゆっくり味わうこともできなったという記憶がある。ともかく、これが、韓国での最初の食事だった。

 昼食後、ソウル市内観光に出かけた。やはり乗り物はタクシーである。臨機応変にコースを変えるということは出来ない。ただ決められた場所に行くだけである。もっとも、こちらも初めての場所だから、特にここに行ってくれという事はなかったので、それで特に不満はなかった。最初に向かったのは景福宮だった。景福宮はソウルにいくつかある王宮の一つで、本来は、ここが正宮だった。しかし、豊臣秀吉の侵攻によって破壊されて、その後長く再建される事はなかった。歴代の王たちは、昌徳宮などの、別の王宮を使用した。再建されたのは、李氏朝鮮末期の大院君の時代。それもすぐに、日本の明治政府によって破壊された。朝鮮を併合した明治政府は、当地の殖産興業をはかるために、景福宮内の多くの建物を破壊して、その跡地で勧業博覧会を開催した。それだけではなく、まるで、旧王家の記憶を消し去るためのように、光化門を移動し、その跡地に朝鮮総督府の巨大な建物を建設したのである。光化門は当初破壊される予定だったが、民芸運動で知られる柳宗悦の抗議によって、破壊をまぬがれて移築された事は広く知られている。旧総督府は、日本の国会議事堂を思わせる、威圧的な白亜の堂々たる石造建築だった。その歴史的な建築物が、私たちが訪れた当時は中央博物館として使われていた。私たちが最初に案内されたのは、その博物館だった。建築ファンの私は、その展示物よりも、建築に興味を覚えた。壮麗な内部空間だった。今思えば、これは幸運な経験だった。なぜなら、金永三大統領は、民族の誇りをかけ、過去の忌まわしい植民地の記憶を払拭し、韓国人にとって聖なる空間だった景福宮を取り戻すために、この旧朝鮮総督府の建物を破壊すると決めたからである。移築ではなく、破壊だった。私たちが二度目にソウルに行った時には、既に、この建物の姿は消えていたから、この時の経験はとても貴重だった。


 それにしても、光化門と景福宮の正殿である「勤政殿」に挟まれた位置に立つ建物は、ちょっと狭苦しい感じがした。帰国後に調べてみて、その疑問は晴れた。植民地時代の写真を見ると、旧総督府の建物は直接世宗大路の突き当たり正面に立っていた。私たちが訪れた時には、本来の場所から移築されていたが、朝鮮戦争時に破壊されてしまった光化門を、朴正煕大統領の時代に、また元の場所に戻して復元してあったのである。だから、光化門と勤政殿に挟まれて、旧総督府の建物は何やら窮屈そうだったのだ。なお、金永三大統領の命によって、旧総督府の建物が撤去された後、光化門そのものも再度建て替えられ、景福宮内の建物群も、順次、再建されている。現在では、景福宮は大院君時代の壮大で優雅な姿をほぼ取り戻している。また、私たちが訪れた後、世宗大路には新たに光化門広場が造られ、李舜臣将軍像に加えて、金色の巨大な世宗大王の座像が造られた。景福宮やその背後の北岳山を含めた景色は、今や、ソウルを代表する美しい都市景観になっている。逆に言えば、私たちが最初に見たソウルは、もう存在しない。なお、当時の日記を読み直すと、私も、この旧総督府の建物は移築すべきだと思っていたようだ。でも、あくまでも移築であって、破壊すべきとまでは考えていなかった。歴史の生き証人である建物は、何らかの形で、保存すべきだったと思う。韓国にも明治村みたいな施設があったらよかったのに。

 博物館を見物した後、本格的な復元事業が始まる前の、景福宮内部の、かろうじて破壊されずに残っていた、「勤政殿」「千秋殿」「慶会楼」などを見物した。その時、私が気になっていたのは、閔妃が殺されたのはどこだったのかという事だった。というのは、この旅行に、角田房子さんの「閔妃暗殺」の文庫本を持参していたからである。李氏朝鮮最後の王である高宗の王妃だった閔妃とその一族は、ロシアとの同盟を模索しており、閔一族と対立していた大院君らと結んだ、日本の軍人や浪士たちによって、景福宮内部で惨殺された。他国の王妃を、白昼堂々と殺すなど、実にひどい事件だが、その事件が起こった現場を知りたかったのである。韓国人女性のガイドに聞くわけにもいかず、その時には、正確な場所はわからなかった。閔妃の殺された建物が復元されたのは、ずっと後のことである。

 景福宮の見物を終えた私たちは、梨泰院に向かった。どうやら、当時は、梨泰院がソウル観光の中心地の一つだったようだ。その頃は、米軍基地が近くにあって、国際的な街だという印象があった。実際、賑やかな街だった。ここで、なにか土産物を買ったような記憶があるが、それ以外の印象は残っていない。夕食は「新羅カルビ」という店の焼肉だったのだが、その店が梨泰院にあったのかどうかもはっきりしない。ただ、肉をハサミで切るのが珍しかった。韓国における焼肉の習慣は案外新しくて、在日朝鮮人あるいは、日本に駐在経験のある米軍関係者が朝鮮戦争時に広めたという説があるそうだ。こうして、生涯最初のソウル見物は終わった。私たちは、ロッテホテルに戻った。言うまでもなく、ロッテホテルは、ソウル一の繁華街である、明洞に近い。私は、夜のソウルをぜひとも見物したかったのだが、妻は、疲れたし、行きたければ一人で行けと冷たかった。私自身も、一人で出かける勇気はなかった。ホテルの部屋で、意味のわからない韓国語のテレビをずっと見ていた記憶だけがある。翌朝、ホテルで朝食を済ませた私たちは、またガイドと一緒に、ソウル駅に向かった。この時は専用車だったのか、またタクシーだったのかは記憶がない。植民地時代に建設された、赤煉瓦造のソウル駅は、現在では、巨大な鉄骨とガラスばりの新駅の隣で記念館になっているが、当時はまだ現役だった。私たちは、そのソウル駅から、黒く煤けたセマウル特急で、次の目的地、慶州に向けて出発した。(つづく)


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