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「世界の名著」を読む #4

スピノザ

 「世界の名著」の第25巻は、スピノザとライプニッツの巻である。今回は、スピノザだけを採り上げる。私は昔からスピノザという哲学者のことが気になっていて、デカルトとパスカルの後はスピノザを読むのだと、何度か読み始めたのだが、そのたびに挫折した。この巻の編集責任者でもある、ライプニッツの研究者として高名だった下村寅太郎さんは、スピノザの主著である「エティカ」についてこう書いている。少し長いが引用させてもらう。

 「神に酔える哲学者」という通り名に慣れてはじめてこの哲学者の主著である「エティカ」に接した人は、おそらく意外な印象をうけたことであろう。定義、公理、証明という数学的構成をもった「幾何学的秩序によって証明された倫理学」に接して冷たく硬い重厚な大伽藍にはいった感じをうけたであろう。そこには暖かく柔らかく人を慰める甘美な趣はまったくない。(略)まことに「エティカ」は哲学書の典型である。安易に近づく読者をこばむ。強靱で真摯な思索を決意した者のみこの門に入れ、の趣がある。そして、この試練を通した人々にのみ限りなき歓喜を約束する。これは真の哲学書のみの与えるよろこびである。

 まさに、レンズ磨きをしていた哲学者という外見に興味を持っただけの、「安易に近づく読者」であった若き日の私が挫折したのは当然だった。では、古希を越えた現在の私が「エティカ」読了という試練を通して限りなき歓喜を得たかというと、それも違うんですね。なぜなら、今回私は裏門から入ったからだ。ここで裏門というのは、國分功一郎さんの著書「はじめてのスピノザ」のことである。以前、NHKの「100分 de 名著」という番組で、國分さんがスピノザを解説しているのを視聴して、まさに目からウロコが落ちた。はじめてスピノザが分かった気がした。同時に、スピノザがこんなに簡単にわかっていいのかと疑問も抱いた。この「はじめてのスピノザ」は、その時のNHKの番組テキストに手を入れたものである。

 この本での國分さんの提案は、生き方について考察した倫理の書である「エティカ」(國分さんは「エチカ」と表記している。)は5部からなるが、最初から順番に読むのではなく、第4部から読み始めると読みやすいということだった。私はその教えの通りにした。第4部から最後まで読み、その後、冒頭部に戻った。それも、全てを精読するのではなく、興味がある部分を拾い読みするという方法で、いちおう、全てに目を通した。いまさらスピノザの研究者になろうとか、スピノザについて蘊蓄を語りたいとか、ましてや、スピノザの生き方を習おうとかいうわけじゃないから、この読み方でよかったと思う。

 下村寅太郎さんは、スピノザを、デカルトやヒューム、ホッブス、ライプニッツ、ニュートンらを輩出した「天才の世紀」である17世紀を代表する哲学者の一人として紹介している。この世紀は、ヨーロッパやその後の世界にとって、ルネサンスと、ルソーや百科全書派の哲学者たちを輩出した「理性の世紀」18世紀をつなぐ画期的な世紀だった。後世から見ると、同じ17世紀の人間に思えるが、デカルトとスピノザには親子ほどの年齢の違いがある。スピノザは、親の世代であるデカルトの哲学に大きな刺激を受けるとともに、デカルトとは違った思想を模索した。國分さんは、「はじめてのスピノザ」で、このようなことを書いている。デカルトは「近代哲学および近代科学の祖」であり、私たちの現代文明は、基本的に、デカルトが敷いた路線の上を走っているわけだが、スピノザの思想は、「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」を示唆していると。

 ここで、國分さんは、ミシェル・フーコーの考えを紹介している。フーコーはこう指摘している。かつて、真理は体験の対象であり、それにアクセスするには主体の変容が必要だった。しかし、デカルトによって、それが変わった。真理は主体の変容を必要としない、単なる認識の対象になってしまったと。そして、デカルト以後において、真理への到達には主体の変容、つまり、自分が変わることが必要なのだと主張したのがスピノザだったのだというのが、國分さんの考えである。

 なんとなく理解できますね。くだいて言えば、頭だけでわかったつもりになっても、本当にわかったことにはならないよということだろうか。いや、スピノザはそんな浅薄なことを言っているんじゃないよという声が聞こえてきますが、國分さんも言うように、この「エチカ」は、観念的な道徳を説くものではなく、実践的な倫理を説くものなので、ところによっては、孔子の「論語」や、方便を説いた仏教経典を思わせる、大人の英知の書でもあった。方便というのは、相手の水準に合わせて教えるということである。スピノザは、善悪には万人に適用できる絶対的な基準があるわけではなく、人それぞれの善と悪があるのだと書いている。その意味でも実践的なのだ。スピノザは、その人の本来持つ可能性を拡げるものが善であり、妨げるものが悪であると考えた。

 というわけで、今回、私が「エティカ」を読んだといっても、主体が変容したとはとても言えないから、スピノザを理解したことにはならないのだが、特に印象深かった定理を紹介したい。その前に、私が尊敬するバートランド・ラッセルの、スピノザに関する言葉を紹介しておく。かつて愛読した「西洋哲学史」からの引用です。今振り返ると、そもそも、私がスピノザに興味を持ったのは、若き日に、このラッセルの文章を読んだからだったと今気づいた。

 スピノーザは、偉大な哲学者たちのうちで、もっとも人格高邁でもっとも愛すべきひとである。知的には彼を凌駕したひとびとはいるが、倫理的に至高の位置を占めるのは彼である。(略)デカルトに対するスピノーザの関係は、ある点でプラトンに対するプロティノスの関係に似ていなくはない。(略)彼はデカルトとその同時代人たちから、唯物論的で決定論的な物理学(自然学)を受け入れ、その枠の中で、畏敬というものや「善」に献身する生活の入りうる余地を見出そうと努めたのである。彼の試みは雄大であり、その試みが成功しているとは考えないひとびとの間にさえ、賛美の念をかき立てたのである。

 晩年のバートランド・ラッセルは、「ラッセル・アインシュタイン宣言」でも有名な、国際的な反核反戦活動家でもあったが、アインシュタインと同じく、実生活では何度も結婚と離婚を繰り返して、世間的な意味では、決して道徳的な人物ではなかった。そのラッセルの言うことだから、とくに味わい深い。


 では、最後に「エティカ」から定理をふたつ。いずれも、第五部だから、「エティカ」の結論部からの引用である。意味がよく分からないと思うが、これらの定理の意味することは、証明や注解(とスピノザが考えた文章)に書いてあるので、興味のある方は各自で原典にあたってもらいたい。たぶん、これらの定理で、スピノザは、神(=宇宙、自然)を真に愛する者の精神は永遠であり、だから死をおそれる必要はないし、神を愛することそのものが快楽なのだと言っている。まさに、スピノザは「神に酔える哲学者」だった。

 第五部 定理39
 きわめて多くのことにたいして有能な身体をもっている人は、その最大部分が永遠であるところの精神をもつ。
 第五部 定理42
 至福は徳の報酬ではなく、徳そのものである。われわれは快楽を抑えるから至福を楽しむのではなく、むしろ逆に至福を楽しむから快楽を抑えることができるのである。

 

  

 

 

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