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韓国の旅 #4

寄り道 ~韓国本を読む~

 2回目の韓国旅行について書かないといけないのだが、その前に、寄り道して、私がいままでに読んだ韓国本の話をしたい。大学で朝鮮史を勉強したが、卒業後に広告会社に就職した私は、社会人として新たに覚えることがあまりに多くて、大学で学んだことをすっかり忘れた。韓国語の初級さえマスターしないままだったのだが、韓国(および北朝鮮)への興味までなくしたわけではなかった。韓国について、一般向けに書かれた本を見つけたら、出来るだけ手に入れて読むようにしていた。(学術書は高いし、読む気力もありません。)それは、1993年に初めて韓国旅行をする前もそうだったし、その後もそうだった。だから、現在の私の書棚には、いわゆる嫌韓本的なものも含めて、韓国本がたくさん並んでいる。今回は、それらの中から数冊を紹介したいと思う。

 まずは、平凡社新書の、川村湊「ソウル都市物語」から始めよう。川村さんは、私と同じ年に生まれた大学教授で文芸評論家。釜山に4年ほど滞在したことがあるそうだが、ソウルには住んだことがないという。住んだことがないからこそ、客観的に記述できると、梶山季之、中上健次、李良枝といった文学者を案内人にして、明治以降の植民地時代から現代までの、ソウルの歴史を探訪した。各種史料を博捜しているから、話題は多岐にわたっていて、勉強になるだけではなく、実に楽しい読み物になっている。

 その本で、川村さんは、その一章をまるまる費やして、ヤンコという人物の見たソウルを紹介している。「ヤンコ」、漢字で韓国語表記すると「洋鼻」というのは、下宿のおばさんがつけたあだ名で、ヤンコさんの本名は長璋吉という、れっきとした日本人だった。どうやら長璋吉は西洋人のような鼻をしていたらしい。ヤンコさんこと長璋吉は、1968年にソウルにやってきた。当時、27歳。東京外国語大学を卒業した彼は、さらに朝鮮語を学ぶために、韓国の名門大学、延世大学の大学院に入学したのである。さまざまな反対の中、日韓が正式に国交を回復してから、わずか3年後のことだった。長璋吉は、帰国後、朝鮮文学者として優れた仕事をいくつもしたが、残念なことに、47歳という若さで亡くなってしまった。その長璋吉が残した本の一冊が、「私の朝鮮語小辞典 ソウル遊学記」である。川村さんは、この本の記述にもとずいて、1970年前後のソウルの街のあちこちを紹介しているわけだ。それらは、今読んでも、実に興味深い。

 実は、私の書棚にも、河出文庫版の、この本があった。それも、川村さんの本を読むずっと前から。たぶん、出版当時、それなりに評判になった本だったのだと思う。この文庫本の裏表紙には、「朝鮮語の単語をひとつずつ紹介しながら庶民生活を生き生きと語る辞典風朝鮮語案内記プラスソウル見聞体験記」と書かれてあった。その通りの内容だった。川村さんは、この小さな本のことをこう評している。

「延世大には外国人に韓国語を教える教育機関としての韓国語学堂があり、ここを通過して、韓国語、韓国・朝鮮問題の専門家になった日本人は多い。そのために新村近辺の下宿や市場や飲み屋を韓国体験の”原体験”として描いた韓国滞在記が、八◯年代後半からの日本で続出した。(略)しかし、何といってもその嚆矢は、わがヤンコさんの『ソウル遊学記・私の朝鮮語小辞典』であり、その下宿篇、街頭篇がその後の”韓国ルポルタージュ”の原型をつくったことは多くの人が認めるところだろう。」

 こう書いたすぐ後で、関川夏央の文章を引用している。関川さんの著書「東京からきたナグネ」からだ。「ナグネ」というのは、韓国語で旅人、よそ者のこと。

 「一九七◯年代半ばに発表された長璋吉の『私の朝鮮語小辞典』は私的ルポルタージュとしてまことに注目すべき仕事だ。彼はソウル留学の過程で韓国人をきわめて批評的に観察し、韓国女性に対するある種の「おびえ」をも、市井の韓国人の考え方と強い自己主張の欲求に対するある種の「うんざり加減」をも含め、のびやかな日本語でソウル市民を描き出した。そして、この本は韓国と韓国人について書かれたほとんど戦後初めてのルポルタージュだった。」

 関川夏央は私の敬愛する作家の一人で、私の書棚には、彼の著作が(文庫本ばかりですみません。)ずらりと並んでいる。彼は、今では、日本の近代文学者たちを描いた重厚な評伝などで知られているが、若い頃に韓国語を学習して、韓国のルポルタージュを書き、その出世作は「ソウルの練習問題」という本だった。私が、現在、持っているのは新装版の集英社文庫だが、単行本は、椎名誠などの本を出していた、情報センター出版局というところから出版された。ソフトカバーのポップな本だった。出版は1983年。私もその本で読んだ。記念すべき関川夏央との出会いの書である。新装版文庫の裏表紙に書かれている文章を引用する。

 「一九八◯年代はじめ、一人の青年が、「近くて遠い」と言われた国を旅した。彼はその国の言葉を学び、街を歩き、そして恋をした。「先進国化」以前のソウルの街区とそこに暮らす素顔の韓国人を活写し、それまでの紋切り型の報道や、卑屈と尊大を往復するだけだった日本人の韓国感を劇的に変えた紀行文学の歴史的傑作。異文化へのみずみずしく確かな視座は、今なお色褪せない。」

 まあ、宣伝文句だから、ちょっと大げさな文章だが、内容には私も同意する。紀行文学の傑作だ。それにしても、この文章は、関川さん自身が長璋吉の本について書いた上記の文章に似ていませんか。きっと、この文章を書いた編集者(だと思う)は、その文章を参考にしたに違いない。それはともかく、関川夏央は、この本の後にも「海峡を越えたホームラン」や「退屈な迷宮」という北朝鮮ルポを書いて、朝鮮半島との付き合いを続けた。でも、今世紀に入ってからは、年齢のせいだろうか、その主な関心は日本の近代文学に向かい、もう海外ルポは書かれなくなった。ちょっと寂しい気がする。

 「ソウルの練習問題」から引用する。関川さんがこの本を書いた当時の日韓関係がどんなものだったか、想像できるだろう。

 「友人たちを韓国の旅に誘うが、誰も心を動かされない。若い日本人も韓国が嫌いなのだ。そうでなければ、少なくとも、韓国がいろいろな意味で怖いのだ。韓国の若く美しい女性も、「コワイヨ、ナントナク」と日本観光をためらった。二者の間にある海峡は地理上の距離の数乗倍も遠いようだ。三八度線の休戦ラインからピョンヤンまでは二二一キロ。東京までは何万キロあるのだろう。若い日本人は誰も韓国を訪れず、ナイーブで、それでいて時どきとてつもなく権高になる中年男の集団が中隊単位で訪れるだけであれば、韓国は、日本にとって北アメリカや西ヨーロッパよりも遠い国でありつづけるだろう。それはいまのところどうしようもない。また、韓国に深い興味を持っている日本人に時折あう。彼らの多数は韓国そのものよりも「韓国問題」に興味を持っていたりする。キムチの味を知らず、女性の発声の美しさを知らず、ただ「問題」のみを語る。肩を怒らせ、眉根にしわを寄せた訪問者は、歓迎しにくいかも知れない。」

 次に紹介するのは、岩波新書の、四方田犬彦「ソウルの風景」。四方田さんは、映画評論家、文芸評論家として著名だが、まだ20代の頃の1979年に、建国大学の客員教授として1年間ソウルに滞在した。この本は、それから21年が経った、2000年の後半の半年間、ソウルの中央大学日本研究所に滞在した時の韓国印象記である。その21年間のソウルの変貌ぶりが、この本のプロローグに感慨深く描かれている。

 「すっかり変わってしまったんだと、わたしは心の中で呟いていた。あの頃は空港のいたるところで軍服を見かけたはずだ。税関検査では鞄のなかを細かく検められ、目の前で雑誌の頁をビリビリと破られたし、ひとつひとつの電化製品について説明を求められたものだった。(略)あの頃と書いたのは、一九七九年のことである。わたしはこの年、東京の大学院で同級生だった留学生を頼って、ソウルの建国大学に日本語教師として赴き、この地で一年を過ごしたという体験をもっていた。それは朴正煕の軍事独裁政権の末期であり、反共を国是とする厳しい監視体制が国全体を覆っている時期に当たっていた。(略)わたしはある時、突然にKCIAに呼び出された。日本人だという理由から酒場で絡まれたことも数限りなくあったし、夜間通行禁止令をつい破ってしまい、留置場で一晩勾留されたこともあった。あの年にはいろいろなことがあった。夏が過ぎるとあちらこちらで暴動と学生デモが活発化し、ついに大学は休校となった。10月が終わろうとする頃、大統領は側近の部下の手で射殺された。直ちに戒厳令が敷かれ、わたしは市内に戦車が出現したところを目撃した。(略)わたしがふたたび居住することになったソウルの巷は、七◯年代とはあらゆる点で異なっていた。まず都市の大きさが二倍以上に膨らんでいるように見えた。かつては旧市街の境界線であった、川幅一キロに及ぶ漢江の向こう側が、旧市街を完全に圧倒するほどの繁栄を見せ、アメリカ西海岸の都市のようなたたずまいを見せていた。(略)地下鉄が地上に出て、まぶしい光の中、大河を渡る時、わたしはパリを思い出した。  
地図からだけ見ると、市街を南北に分かつ形で川が走り、その中央に小さな島があるという地形は、パリそっくりに見えたのである。(後略)」

 最後にもう一冊紹介する。茨木のり子「ハングルへの旅」。私が持っているのは1989年発行の朝日文庫版の初版だが、元本は、その3年前に刊行された。いうまでもなく、茨木さんは、大岡信さんや谷川俊太郎さんの仲間の、著名な詩人だった。その女性が、50代になってから韓国語の学習を始めた。配偶者を亡くしたことがきっかけの一つだったと言う。何かに熱中したい。それには語学の勉強がいい。ドイツ語がいいか、それとも隣国の言葉がいいか。茨木さんが選んだのは韓国語だった。いろんな人に、どうして韓国語?とたずねられたそうである。この本は、そんな茨木さんの韓国語学習記であり、共に学ぶ友人たちや韓国人たちとの交流記である。もちろん、韓国旅行記の要素もある。次に引用するのは、韓国語学習記の部分だ。

 「当時、朝日カルチャーセンターには、中級・上級クラスはまだ無くて、あと行きどころがなくなった。ただ、金先生を講師として招いている大小さまざまの自主講座があり、そういうところを紹介して頂いて、以後、転々として十年の歳月が流れた。(略)語学コンプレックスは深く根を張っていたし、勤勉なたちでもない。皆無とおもっていた語学能力が、耕されかた、耕し方次第では活性化して動き出すということを知った。この年になって脳の中で眠っていた我が休耕田に気づかされたのである。今までの人生をふりかえってみて、この十年間ほど一心不乱に勉強した歳月はなかった。」

 紹介したい韓国本はまだまだたくさんあるが、またの機会に。次回からは、韓国旅行の思い出話に戻ります。私たち夫婦が韓国をふたたび訪れたのは、あの「冬ソナ」ブームの後だった。このブームは、私自身の妻を含む、数え切れないほど多くの日本女性を「茨木のり子化」したのである。


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