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チョン・ヤギョンなんて知らない 「第六回」



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 この杉本さんとの「初デート」での会話を、その後も仙石さんは牛が反芻するように何度も頭の中で再生することになった。あらゆる記憶がそうであるように、その会話は再生するたびに仙石さんの脳内で無意識のうちに少しずつ変容していったのだが、もちろん、仙石さんはそれに気がつかなかった。なにしろ無意識だから。それにしても、仙石さんは視覚よりも聴覚の発達した人間なのだろうか。高校の時の選択科目では音楽ではなく美術を選択したのに。仙石さんはその「初デート」の時の杉本さんの声や話し方は鮮明に記憶していたけれど、その時、杉本さんがどんな服装をしていたのか全く思い出すことができなかった。仙石さんは子供の頃から気が弱くて、女性の目を直視することなどできない少年だったのだが、社会人になってからは努力して普通になった。でも、管理職になってからまた昔に戻ってしまった。仙石さんが公務員になった頃にはそんな言葉はなかったはずだが、いつのまにか「セクハラ」とか「パワハラ」という言葉が社会で一般的に流通するようになり、そう呼ばれる可能性のある行為は、特に公務員にとっては細心の注意を要するものになった。仙石さんも管理職になった時に講習を受けた。その結果、仙石さんは女子職員の容姿や服装に関しては何も言わない、たとえ男同士の会話でも女子職員のうわさ話はしないという習慣がついた。女性と対面する時も、容貌をジロジロ見たり、胸やお尻のラインを見ていると思われないように気を使った。そんなことが習慣になったのだろう。だから、杉本さんの化粧気のない容貌や細見のなめらかな体型などの映像はいつも背後から強い光をあびているように輪郭がぼやけていたのだが、その声の印象だけは明瞭に耳に残っていた。事実、仙石さんにとっての杉本さんの魅力は、その滑らかな白い肌でも、いたずらっぽく動く瞳でも、すらりと伸びた手脚でもなく、なによりもその声にあった。ベルベットボイスという古い表現がある。まるで母の胎内で胎児が聞く母親の声のように響く甘えたくなるような気持ちのいい声だった。この場合、杉本さんが仙石さんの娘よりも年下であることは全く関係なかった。このデートの後で仙石さんがしたのは、そんな、頭の中での音声再生だけではなかった。大学から送り返されたまま、序論と結論部分をちらっと一瞥しただけで、一度も開くことがなかった卒業論文を、何十年ぶりかで読み直してみたのである。


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 卒業論文が仙石さんの元に送り返されてきた時、優れた論文は後輩の学生達の参考のためにも保管されるはずだから、自分の卒業論文はそれには該当しなかったということなのだろうと仙石さんは思った。無理もない。でも、同封されていた挨拶状には、現在では、学生の卒業論文は卒業式の日に返却することになっていると書いてあったので、ちょっと安心した。仙石さんはその後その論文を読み返すこともなく、といって捨てるでもなく、そのまま、書斎の机の抽斗の奥に入れておいたのである。そう。なんとも贅沢なことに、仙石さんは、わずか4畳半ほどのスペースではあるが、自宅に自分の書斎を持っていたのだ。仙石さんがS市内の50坪ほどの土地に二階建ての家を建てたのは、もうすぐ40歳になろうという時だった。その時は、子供達二人が学齢期だったので、仙石さんの書斎は、独立した部屋としてはなく、リビングの一隅が仙石さんの書斎コーナーだった。子供たちが成長して独立した後、仙石さんは待望の書斎を手に入れた。邪魔者扱いされ、時には処分されながらも、なんとかリビングの壁の書棚に収納されていた仙石さんの二千冊あまりの蔵書も自らの手で書斎に移動した。家のローンは既に完済していた。その事は、長年夫婦共稼ぎだった乃里子さんのおかげだったのだから、仙石さんがこうして書斎を持つことができたのも乃里子さんの理解があっての事だった。その書斎で、仙石さんは自分が書いた卒業論文を読み始めた。大学を卒業してから約40年。すっかり本人も内容を忘れていた仙石さんの卒業論文には、こんなことが書かれていた。
         
 まず、論文の題名は「李朝の実学」という平凡なものだった。当時はパーソナルコンピュータはもちろん、ワープロもまだなかったから、大学指定の200字詰原稿用紙に万年筆での手書きで158枚である。同じゼミの荒川さんは確か400枚以上書いたはずだから、これは短い。こんなところにも、本物の学者になった荒川さんと仙石さんとの違いがあった。仙石さんの論文は、まえがきと本論全5章と結論、それに参考文献一覧からなっていた。参考文献は、一般向けの書物を含む、日本語の書籍ばかりだったが、それでもかなりの冊数の本を読んで、当時、梅棹忠夫さんが考案して流行していた「京大式カード」に、文献から引用した文章を書き込んで行った日々は、今となっては懐かしい。論文の章立ては以下の通りだった。

  まえがき
  第一章  李朝の儒教
  第二章  新体制下の三国関係
  第三章  李朝の実学
  第四章  丁若鏞とその時代
  第五章  東アジアの「近代」
  結論

  第四章の表題は、言うまでもなく、当時、第一部と第二部が出版されて、評判の高かった江藤淳の「漱石とその時代」を意識したものだろう。丁若鏞、この論文の主要人物なのに、杉本さんに教えてもらうまで、韓国語ではチョン・ヤギョンと読むのだということを知らなかった。40年間の無知の涙。でも、杉本さんも丁若鏞がどういう人物だったかまでは詳しくは知らないだろう。たぶん。そうあって欲しい。仙石さんはそう願った。丁若鏞は、18世紀から19世紀にかけて活躍した、朝鮮実学を大成したといわれる人物である。現在の韓国では、杉田玄白とか平賀源内のように、誰もが学校で習う歴史上の偉人だが、日本ではほとんど知られていないし、仙石さんが卒業論文を書いた当時は、韓国や北朝鮮においても、その本格的な研究はまだ始まったばかりだった。もっとも、韓国朝鮮語の文献があったとしても、日本語訳がなければ、当時の仙石さんには読む事ができなかったのだから同じ事ではある。それに、仙石さんは原文にはほとんどあたらなかったが、丁若鏞の著作はもともと漢文で書かれていた。現代韓国語は必要なかったのである。

 「まえがき」はこんな文章だった。

 東アジア(日本・朝鮮・中国)において、日本だけがいち早く近代化に成功したのは何故だろうというのが、多くの人々の疑問であり、私の疑問でもあった。この疑問の中には、日本人として生まれたことへの誇りのような感情が隠されている。ひいきのチームの勝った翌朝の新聞記事を何度も読み返すようなものだ。私はそれを否定しない。それが正常な心の働きだからである。しかし、その近代化なるものの正体をよく見極める必要がある。無邪気な誇りは傲慢に容易に転化する。アジアの連帯がうたわれる現在、東アジアの中で日本の近代とは本当は何だったのかを知る必要があると思った。そこで、日本と中国の間にはさまって忘れられがちな朝鮮の近代を特に選んだ。そして実学思想の存在を知り、それを研究のテーマにすることにした。第一章では、実学思想の前提として朝鮮の儒教と社会について書き、第二章で、当時の国際関係について簡単に触れた。実学思想を扱ったのは第三章である。その実学思想をよりよく理解するため、第四章で代表的な実学者、丁若鏞をとりあげた。そして最後の第五章で、東アジアの近代を概観した。
 もとより、私の能力では問題が大きすぎ、努力は小さすぎた。全く粗雑な論文になった。実証性は皆無である。私としては、紀貫之流に「心あまりて ことば たらず」と評してもらえれば大満足である。

 酷い文章だなと仙石さんは思った。卒業論文が学術論文といえるのかどうかは別にして、だいたいが学術論文のまえがきになっていないではないか。先行研究への言及がまるでないし、だから、過去の研究史の中での自身の論文の位置づけがまったくできていない。朝鮮を研究対象に選んだことについても、従来の日本と西洋、日本と中国という比較論とは別の視点に立った日朝比較の必要性について現状がどうなっているのか、もうすこし具体的に書くべきだった。もっとも、当時の仙石さんは、そんな事が書けるほど勉強していなかったのだから、これはないものねだりだ。本格的に研究するためには、専門教官のいるどこかの大学院に進学すべきだったろう。それにしても、最後の方の、こんな卒論しか書けませんでしたけれど、これでも一生懸命書いたので許してくださいねと言わんばかりの文章は実に恥ずかしいと、還暦間近で、長年の役人生活をもうすぐ終えようとしている仙石さんは思った。この時、仙石さんの顔はたぶん少し赤くなっていただろう。やっぱり、こんな恥ずかしいものは焼却しておくべきだった、仙石さんは、中身をとばして、次に「結論」を読んだ。この論文で、若き日の仙石さんはどんな結論を得たのか。いやあ、仙石さんが思わず欠けた頁があるんじゃないかと探してしまったほど、簡単な結論だった。

 結論

 この小論は、東アジア近代史序説ともいうべきもので、ほんのスケッチ程度の見取り図であり結論はない。ただ言えることは、

  一、東アジアの近代を考える時、李朝実学派の思想を無視して    
   はならない。
  一、実学派の思想家たちは主気的立場をとる。
  一、東アジアにおいて、西洋技術の導入に貢献したのは、主気 
    派の思想家が主である。
  一、実学派は朝鮮の百科全書派である。
  一、実学派の弾圧は、朝鮮の近代化を遅らせた。
  
 というような事である。 (以上)

 たったこれだけ。自分が書いた文章ながら仙石さんは本当に驚いた。「結論」と言いながら「結論はない」といけしゃーしゃーと書くんだから。本当に、よくこんな卒業論文で卒業できたな、主任教授だった大村さんに感謝しないといけないと仙石さんは思った。たぶん、既に公務員試験に合格していた仙石さんの将来をおもんばかってくれたのだろう。それにしても、これではあんまりだ。仙石さんは、恐る恐る、この論文の本文を読むことにした。そして少しだけほっとした。「結論」ほどは酷くないなと思った。仙石さんは、自分はまる一年をかけて、こんな小学生の作文みたいな文章しか書けなかった大学生だったのかと一時は絶望的になったのだが、幸いなことに、本論の部分はそこまで酷くはなかった。というのは仙石さん自身の判断である。自分に甘く他人には厳しいというのは世の習いである。その判断が正しいという保証はない。日頃若い職員たちの文章力の低下を嘆いていた仙石さんだが、果たしてその資格が仙石さんにあるのかどうか。以下に詳しく見てみよう。

 まず第一章「李朝の儒教」から。李氏朝鮮王朝は儒教国家だった。儒教、それも宋学とも呼ばれた朱子学を国教としたのは、同時代の明清朝の中国も、江戸徳川期の日本も同じだったが、武家政権だった日本での朱子学受容がたぶんに表層的で教養的なものであったのに比較して、朝鮮や中国におけるそれは、国家の骨格を形成する根本思想であったと言うことが書いてあるのだが、なんと、そこに司馬遼太郎の発言からの引用がある。これは卒論であってエッセーじゃないと、仙石さんは若き日の自分につっこみを入れつつ読んだ。ともかく引用文は以下の通り。「江戸時代は最も中国文明に心酔した時代の一つであり、たぶんに儒教的な武士道というものを生み出したが、江戸時代の日本を儒教国家と呼ぶ事はできない。科挙制度がなかったというだけで、もう儒教国家とは言えないのである。」
 以下、李氏朝鮮が、いかに日本とは違って、純正の儒教体制であったかが、当時の科挙制度や行政府の仕組みなどとともに記述してあった。ただ、中国の科挙が、内容はともあれ、本来の能力主義に基づいていたのに較べて、朝鮮では「両班・中人・常民・賤民」という身分制が強固にあり、たとえば科挙の文官試験には両班階級の子弟しか応試が許されなかったというような制限があった。そのような朝鮮独自の体制が、本来の科挙が持つ、民主的な能力主義の面を骨抜きにしたという事は否定しがたい。このことが、中国においては曲がりなりにでも辛亥革命を成功させることができたのに比較して、朝鮮独自の改革運動が挫折せざるをえなかったことの遠因になっているのかもしれない。また、技術者の階級である中人階級にも問題があった。辻哲夫氏の「日本の科学思想」によると、日本の近代科学思想は、医学を原型として成立したのだが、(西欧では力学)、そのことが日本独自の儒学の成立と関係しているという。「日本の儒学と日本の医学、すなわち古学と古医方とがおなじ時期に同型の成立過程をたどったことは、たぶん、日本の学問史におけるもっとも重要で、もっとも特徴的なできごとの一つであろう。」
 渋江抽齊の例をあげるまでもなく、日本においては、医官が儒官を兼ねることがあったが、朝鮮では身分を分離固定してしまったことが、その後の発展の大きな障害になったと考えられる。
 また、李朝の儒教と社会を考える上で忘れてはならないのは、士禍と朋党である。旗田巍氏はこう書いている。「それは政策の方法についての論争ではなく権力をとるか殺されるかの争いであった。敗者に対しては、墓の中の屍までひき出して斬るという凄惨な闘争であった。この争いが君主に対する忠誠を問題にしている点では極めて古めかしいものであった。」
 このような党争の最中に、朝鮮は大きな外敵の侵入を受けることになった。秀吉とヌルハチである。どちらも、党争が招いた侵略だと言えないこともない。前者は、かろうじて宗主国の明の救援で撃退したが、後者によって明が滅び、朝鮮はヌルハチの建国した清を新たな宗主国にせざるをえなかった。この事は、後の李氏朝鮮の両班たちの心理に大きな影を投げかけた。両班たちは、表面では清に服属しながらも、内面では夷狄として軽蔑しつづけたからである。このことが、彼らの宿痾とも言うべき名分論的な形式主義を助長し、党争を更に矮小なものにしていった。ふむふむ、ほとんどコピー&ペイストだけれども、要点はちゃんとわかってるじゃないかと思いながら、仙石さんは読み進めた。以下、論文はこのように続く。

 秀吉の朝鮮侵略を契機として日本では徳川政権が生まれ、中国は清王朝になった。朝鮮では李氏による王朝が続いたが、それは荒廃した国土を回復させることはなく、李朝の後半は、長期的な衰退状態に陥ったと言えるのである。なお、ここで朝鮮儒教の特徴について触れておきたい。ここで論文の記述は、再び儒教の話にもどる。日本の儒教、特に徳川時代の正統学となった朱子学は、朝鮮朱子学の大きな影響のもとに出発した。朱子学は、あまりに厳密で完成された体系なので、朱子を継ぐ独創的な学者が出にくかったのだが、朝鮮朱子学を大成したのは、16世紀の李退渓である。彼は、朱子の「理気二元論」のより精密な分析を行なった。おおまかに言えば、「理」は形而上的真実、「気」は形而下の真実を示す。朱子その人は、「理」をより重視する「主理」的な立場にあった。李退渓および、その影響を受けた藤原惺窩や林羅山らの日本の朱子学者も、内的体験を重視する「主理派」に属する。それに対して、王陽明の陽明学にも通じる「主気派」は、外的体験を重視する博学主義の傾向を持っていた。日本における荻生徂徠らの古学、朝鮮における実学者たちは、この「主気派」から生まれた。(朝鮮では、陽明学は受け入れられなかった。)なお、現在の中華人民共和国や北朝鮮では、唯物史観思想の観点から、「主気派」の思想が称揚され、李退渓らの思想は反動として否定されている。

 次は第二章「新体制下の三国関係」の概要。李朝外交の基本方針は「事大交隣」だった。「事大」とは宗主国に仕えることを指し、その相手は李朝前期の明から後期の清へ変わった。「交隣」の相手である日本も、室町幕府から江戸幕府へと変わり、東アジアの新体制がスタートした。日本と朝鮮の外交関係に大きな役割を果たしたのは朝鮮通信使である。室町時代に六回の通信使が日本を訪れ、日本からも禅僧を中心とする使節が60回以上も朝鮮を訪れているが、秀吉の侵攻によってこれらが絶たれ、徳川期になって復活した。ただし、江戸時代の日本からの朝鮮訪問は対馬の宗氏が代行し、外交使節は朝鮮からの一方通行になった。江戸時代の朝鮮通信使は、正使、副使以下、総勢三百人から五百人に及ぶ使節団として、徳川将軍家の代替わりごとに、その祝儀の使節として来日した。その行程は、釜山から海路で対馬を経て、各地で大名達の接待を受けながら瀬戸内海を東航して大坂に上陸。淀川を遡航して京都へ。そこから東海道沿いに江戸まで下った。江戸で将軍に国王の親書を手渡した後、日光東照宮に参拝することもあった。朝鮮通信使の来訪は、鎖国下の江戸の人達にあって、琉球使節、阿蘭陀甲比丹の江戸参礼とともに、それこそ一生に一度あるかないかの、異国の風物や人間に触れる数少ない機会であった。使節を迎える江戸や各地の庶民は熱狂したが、熱狂したのは一般庶民だけではなかった。各地の儒者や文人たちも全国から集まった。道中の旅館で使節と筆談したり漢詩を応酬したり、書画を求めたりもした。
 しかしその反面、秀吉の侵攻以来、朝鮮儒学界は低調となり、後進の日本と立場が逆転しつつあった。その象徴が新井白石による通信使受入儀礼の大改革である。もはや、儒学や文物において朝鮮は学ぶべき対象ではなくなりつつあったのである。それどころか、国学者を中心に、記紀神話の研究などを通じて、朝鮮は元来が日本の朝貢国だったという思想が起こっていた。これらは後に、吉田松陰を経て、明治の征韓論につながっていく。
 江戸時代の日朝貿易は、先に触れたように、対馬の宗氏が代行していた。その宗氏も首都のソウル(漢城)へは入れず、長崎の出島に相当する、釜山の倭館に閉じ込められて行動を制限されていた。日本からの輸出品は銀などであり、朝鮮からは人参や書籍類が日本にもたらされた。では、当時の中国と朝鮮の関係はどうだったのだろうか。李朝は、毎年、宗主国である清へ燕行使と呼ばれる使節団を送っていた。清からも毎年使節団がやってきて、朝鮮国王はわざわざ郊外まで使節を迎えに出かけた。李朝の使節団は、陸路を二ヶ月ほどかけて北京へ達し、北京で二ヶ月ほど滞在した。朝鮮を発し、朝鮮に戻るまで半年あるいはそれ以上におよぶ行程だった。使節団は、清国皇帝の誕生日を祝賀するなどの公式行事の他、貿易や観光などに日を送ったが、重要なことは、李朝後期の文芸復興の気運が、これら燕行使によってもたらされたことである。清朝考証学だけではなく、西洋の科学知識や天主教の教義も、このようにして朝鮮に入った。朝鮮実学もまた、燕行使がもたらした「清欧文物」の刺激によって生まれたのである。最後に、当時の日本と中国との関係についても触れておこう。日本と中国の交流は、琉球を介するものの他は、長崎で行われていた。当時、中国(清)は、長崎において、オランダ並みの待遇を受けていたと思われる。日本から中国への輸出品は銀が中心であり、中国から日本へは、絹織物や書画、書籍類、陶磁器などが輸出された。

 次は、第三章「李朝の実学」の梗概。1965年にソウルで出版された「大漢韓辞典」には、「実学」は以下のように定義されている。「李朝の壬辰・丙子両乱後の国民的自覚と清国をつうじての西洋文化の影響をうけ、実生活に益することを目標として実事求昰と利用厚生にかんする研究をおこなった儒教以外の学問」。ちなみに、この壬辰乱は秀吉の侵攻、丙子乱は清建国直前の北方女真族ヌルハチによる朝鮮侵略のことを指す。「実学」とは、政争の道具となり空理空論をもてあそんで流血頽廃をもたらした既成儒教への反抗であり、貧窮にあえぐ農民への同情であり、現体制への批判であった。「実学」は、李朝前期の除花潭らと開国後の金玉均らの開化思想をつなぐ過渡的な思想であったとも考えられるが、その新思想の先駆者的側面は、朝鮮における近代思想の歴史的前提として、注目すべき足跡を残したのである。
 実学思想の鼻祖は、17世紀の磻渓・柳馨遠であるとされている。第二章で触れたように、李朝の儒教は李退渓の時代に思想的成熟期を迎えたが、後の実学の思潮に影響を与えたのは、李退渓の対立者だった李栗谷だった。いわゆる主気派の頭目である。退渓らの主理派が形而上的な観念論だったのに対して、主気派が現実をより重視する立場だったことを考えれば当然のことである。柳馨遠の思想は、その栗谷の流れの下にあって、燕京使らが北京からもたらした新思想を取り入れる中で確立された。その学を継承し拡大したのが李星湖であり、実学を大成したのが、茶山・丁若鏞だった。柳馨遠も李星湖も、都を離れ、僻村の書堂で学問研究と門弟の養成に専念して一生を終えた学者だった。しかし、李星湖が朝鮮通信使などを通じてか、日本に関する知識もかなり持っていた事は、ここで触れておくべきだろう。彼は、通信使の回数をもっと増やすこと、釜山の倭館に留められている日本の使節を漢城(ソウル)で応接すべきだと主張した。
 実学者の中には、柳磻渓→李星湖→丁茶山という流れとやや異質な流れもあった。洪大容→朴趾源→朴斉家のラインである。彼らは、名門の家に生まれて首都の都会的な空気の中で育ち、進歩的な考えを持つグループだった。彼らは「北学派」と呼ばれるようになった。「北学」とは、北に学ぶ、つまり中国に学ぶという意味である。清は朝鮮の宗主国ではあったが、もともとは北方の蕃族の建国した国であると、儒教の観念論に凝り固まっていた朝鮮の知識人は内心では軽蔑していたわけだが、実際に中国を見た彼らは、西洋の窓口でもある中国に虚心になって学ぶべきだと主張したのである。彼らは、天文学や数学などの幅広い知識を朝鮮にもたらすとともに、頑迷固陋な両班階級を批判する著書を残した。例えば、朴斉家は、両班を商業に従事させよと主張し、開国論の立場から海外貿易の重要性を述べた。実学思想史を概観すれば、柳磻渓→李星湖は実学初期、洪大容→朴趾源→朴斉家は実学中期と言えるだろう。そして、実学後期を代表するのは丁茶山である。しかし、大きな可能性を近世朝鮮にもらたした実学の時代は、その茶山・丁若鏞の死とともに、次代に結実することなく終わってしまったのである。という流れで、いよいよ「丁若鏞とその時代」の章が始まる。      (つづく)



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