今月読んだ本 (19)
2024年10月
今月kindleで読んだ本は、Yuval Noah Harari "Nexus"でした。
"Sapiens"(「サピエンス全史」)と"Homo Deus"(「ホモ・デウス」)が世界的な大ベストセラーになったことで、今や、現代世界を代表する知識人の一人と目されているイスラエルの歴史家の最新作です。"nexus"を辞書でひくと、つながり、集団、結合体、中核といった意味が載っています。この本の副題は、「石器時代からAIまでの情報ネットワーク小史」とありますので、nexusとはまさに情報ネットワークのことだと理解していいのでしょう。
「ホモ・デウス」の最後の部分は、コンピュータのアルゴリズムに支配される未来社会を描いていて、読んでいた私の方までも、なんとも暗い気分になったものですが、この本の刊行後、ハラリは各国のAI専門家から多くのアプローチを受けたそうです。AIには門外漢の歴史家だったハラリの本格的なAI学習がそこから始まって、ついに、この本に結実しました。簡略化して言うと、この本はAIの持つ危険性を人々に警告する本です。とは言ってもハラリは歴史家ですから、この本はAIそのものについて語るのではなく、そもそも情報とは何かから始まって、これまで、人類がどう情報を扱い、情報に動かされてきたのかという、いかにもストーリーテラーのハラリらしい、壮大な歴史を紡いでみせてくれました。
ハラリによると、人類の文明は情報によって形成され、情報によって変容発達してきました。つまり、情報を操作する人間や階層が権力を握ってきました。現在、人類は自ら生み出したAIによって人類滅亡の危機に直面しています。なぜなら、今や情報を操作するのは人間ではなく、時にアルゴリズムまたはAIとも呼ばれるコンピュータたちの集合体(nexus)になっているからです。(ハラリは、AIはもはや"artificial intelligence"<人工知能>ではなく、"alien intelligende"<異星知能>だと言っています。)この本は、そんな人類に今ならまだ間に合うと、警鐘を鳴らすために書かれました。その主張内容は、かつて読んだスレイマンなどの同種の書物とほとんど変わりません。つまり、AIを禁止するのではなく、その開発のスピードを緩めること。しかし、ハラリの真骨頂は、彼が歴史家であることにあります。歴史家の仕事は、理論を膨大な事実で裏書きすることです。あるいは、膨大な事実から理論を抽出することです。博覧強記にして、まるでドキュメンタリー作家のような語りの芸の持ち主でもある(歴史もドキュメンタリーも物語の一種です。)歴史家ハラリの才能が、この問題の重要性をさらに世界に訴える力となることは間違いありません。
ハラリの語りの才能の一例をあげましょう。ハラリは、人類の文明は二つの種類の情報で形成されてきたと主張します。ひとつは「物語」。多くの庶民にとっては、情報を情報のまま記憶することは難しく、物語の形にする必要がありました。もうひとつは「官僚機構」(ビューロクラシー)。文字の発明とともに、膨大なその情報を整理保存し活用する特別な階層が世界中で形成されました。独裁者や王族のいない文明はあっても、官僚機構のない文明は存在しません。ここでハラリが持ち出すのは、現代のインドのお話でした。インドの古代叙事詩「ラーマーヤナ」を原典にしたドラマがコロナ禍の時期に再放送されて驚くべき高視聴率を獲得したという話で、いまも国民統合に果たす民族の物語の重要性を示し、その一方、モディ首相がインドの全世帯にトイレットをと主張したことの背景に、インドにおける官僚機構の充実があると指摘するという具合。まさに「物語」と「官僚機構」が現在の大国インドを形成しているという話ですね。(私個人的には、明治の日本が「古事記神話」という「物語」と、江戸時代の武士階級を引き継いだ「官僚機構」に支えられていたことを思い出します。)他にも、アルゴリズムの危険性を表現するために、ミャンマーにおけるロヒンギャの人々の大殺戮にフェイスブックが果たした役割を記述するなど、さすがハラリだと感心します。まさに視野が古今東西にわたっていて博覧強記。でも、こんな具合に書かれていると、本はどんどん分厚くならざるを得ない。この本も、日本語に翻訳されると、たぶん以前の著作と同じく上下二巻になることでしょう。長すぎる。正直に書くと、私は、この本の最初と最後の部分はちゃんと読みましたが、途中は走り読みですませました。日本語だと速読や飛ばし読みでもある程度の内容を把握することができますが、英語の場合は重大な読み落としがあるかもしれないので、注意が必要ですね。それと、これも正直に書くと、AIの話は人類にとって本当に重要ですが、ハラリ以外にも書く人はいる。私としては、イスラエル人であるハラリには、どうすればイスラエルを含む中東地域に平和が訪れるのか、歴史家としての考えを聞かせてもらいたいなと思わないでもありません。
今月は新刊の新書を三冊読みました。いずれもネットで話題になっていた本です。まず最初は、安田峰俊「中国ぎらいのための中国史」。安田さんによると、世論調査では、現在の日本人の9割が中国ぎらいなので、これは「日本人のための中国史」と同じ意味だそうです。大学で東洋史を専攻した私は中国ぎらいではなく(習近平は嫌いですが)、今でも、中国や朝鮮&韓国関連の本は、目につく限り読むことにしています。安田さんの本も愛読してきました。本格的に大学で中国史を勉強した安田さんの本は、中国の裏社会や下半身事情をルポルタージュした本から、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した名著「八九六四」まで、実に幅広いのが特徴です。この本などは、現代を代表する中国文学者の一人、明治大学の加藤徹教授あたりが書いてもいいような、初心者向けに易しく書かれているけれど、かなりハイブロウな内容を持つ一般向け書物です。とても面白くて、それこそ、中国のことをよく知らない、多くの日本人に読んでもらいたい本だと思いました。
著者は、中国史や中国古典の研究で圧倒的実績を持つ日本が、現代中国の分析にせっかくのそれらの資源が活かされていないことに、歯がゆい思いを抱いていたと言います。なぜなら、毛沢東の主導した文化大革命以後、過去の中国と現代中国は全く別物になったという先入観に反して、現代中国は、過去の中国史や中国古典と深く結びついているからです。例えば、「漢詩と李白」と題した段落があります。なんと、中国のネットには、「二歳の子どもが必ず暗唱するべき漢詩三○首」などという記事が多くあるのだそうです。激烈な競争社会である中国の教育事情については多少の知識がありましたが、ここまでとは思いませんでした。ひらがなやカタカナのない中国における子どもたちは本当に大変だなと同情しました。これが現代中国なんですね。
この本の「おわりに」を読んで、私は安田さんの野心を知ったような気がしました。内藤湖南の名前があげられていたからです。もう50年も前のことですが、私が東洋史学科に進んだ時、主任教授は、まず内藤湖南を読みなさいと教えてくれました。また、私の尊敬する仏文学者の桑原武夫さんは内藤湖南を終生尊敬していました。内藤湖南は京都大学で教鞭をとった「シナ学」の泰斗ですが、もともとはジャーナリストでした。どうやら、安田さんは現代の内藤湖南になろうとしているのではないか?まあ、冗談ですが。
次に読んだ新書本は、今井むつみ「学力喪失」。認知科学の研究者である今井さんの本は、「英語独習法」「言語の本質」に続いて三冊目ですが、いずれの本も、陳腐な表現をつかえば、「目からウロコが落ちる」という感想を持ちました。これは今井さんが凄いのか、認知科学という学問が凄いんでしょうか。この本は、小学生が算数の文章問題を解くのが苦手だ、それはどうしてなのか、どうすれば改善できるのかという課題から出発した、現在も進行中の研究の報告書ですが、その研究手法は、「英語独習法」「言語の本質」と共通したものがありました。仮説の設定と実験実証のバランスがとてもいいんですね。今井さんはとても信頼できる研究者であり、真に優れた学者がそうであるように謙虚で、しかも説得力のある文章の書き手だなという印象は、この本を読んでますます強くなりました。同時に、この本は子供を持つ親や教師だけではなく、私たち一般の大人にも有益な本だと思いました。知識には「生きた知識」と「死んだ知識」がある。「生きた知識」は正しい「スキーマ」がないと生まれないし育たない。「スキーマ」という認知科学の用語は、「英語独習法」にも出てきましたが、すべての学習の前提になるような暗黙の知識のことです。これがないと知識は定着しない。算数の文章問題が解けない子供達には、この「スキーマ」がないのです。あるいは誤った「スキーマ」がある。大人の感覚で「常識」がないと言ってはいけないんでしょうが、数の大小の概念がわからない。まずそもそも1という概念がわからないから分数などとてもわからない。1時間が60分だということもわからない。これでは文章題は解けませんね。もうひとつは「言語の本質」にも出てきた「記号接地」という概念。子供達の学習のつまづきの原因は、この「記号接地」ができていないこともひとつです。つまり、知識の身体化ができていない。知識が単なる知識であって、血肉化されていない。つまり、「死んだ知識」になるというわけです。
そんな子供たちに「生きた知識」を与えるには、親や教師はどうすればいいんでしょう。今井さんの答えは、教え過ぎてはいけないということでした。私たちは子供の時に特に日本語教育を受けたわけではないのに、いつのまにか話せるようになっていた。それと同じように、全ての学習は基本的に自習・独習なのです。大人や教師の役割は、まず、子供達に学ぶことの楽しさ、発見のよろこびを体験させること、その手助けをすることだというのは、今井さん以前にも主張する人たちはいて、特に目新しい主張ではありませんが、実際に、そんな教育をしている学校や家庭が現在どれだけあるのかを考えれば、重要な指摘であることは確かだと思います。今井さんは、学校教育の目標として、こんなことをあげています。「自分の誤ったスキーマを修正できるようになり、知識を自分で育てていける力を身につける。知識が、そして思考することが、身体の一部になる。ここまでいけたら、あとはいくらでも、どんなことでも自分で学んでいける。自走できる学び手になることができる」そんな子供たちを育てることだと。大賛成です。これからの日本の教育行政が、こんな考え方で運営されたらなと思います。簡単ではないでしょうが。なお、私自身は子供も孫も持ったことがなく、この恐ろしくもあり限りなく楽しくもある、子供の教育とは無縁な人生を送ってしまいました。とても残念です。家内は元小学校教師だったので、いろんな経験をしただろうと思いますが、やはり、簡単ではないと言うでしょうね。
三冊目の新書本は、松沢裕作「歴史学はこう考える」でした。著者自身の説明によると、この本は「歴史家が何をやっているのか、歴史学の論文や本というのはどのように書かれているのか、具体的に説明する」ために書かれた本です。実際、その通りの内容でした。こんな、現在、大学で歴史を学んでいる、あるいは、これから学ぼうと思っている学生や、特に歴史に興味のある読者以外には興味のなさそうな地味な本なんですが、私が行った大阪市内の大型書店では平積みになっていました。ネットでも話題になっていて、かなり売れているようです。なんだか不思議な感じです。類書がいままでなかったからでしょうか。上にも書いたように、私は大学で東洋史を専攻したので、卒業論文というのを書きました。その時に私が書いたのは単なるレポートで、「論文」と呼べるようなものではないことが、この本を読んで、改めてわかりました。そんな気持ちも能力もありませんでしたが、そのまま大学院に進んで研究者にならなくて良かったと思います。
この本で取り上げられているのは、いわゆる実証史学の方法です。私自身は、昔読んだトインビー以来の文明史というのか、大風呂敷の壮大な歴史が好きで、チマチマした史実を扱う、想像力に欠けた(と私が勝手に思う)実証史学はあまり好きではありませんでした。でも、考えてみると、実証史学こそが史学の基本なんですね。あのハラリも歴史家ですが、彼だって歴史家としての訓練は実証史学の方法で受けたに違いありません。(調べたわけではありませんが。)壮大な構想を描くにも、細部がきっちりしていないとすぐに崩れてしまいます。なによりも説得力がない。ハラリの著作もまた、多くの地道な歴史の研究者らの論文に支えられているに違いありません。というわけで、この本が売れているようなのは良いことだと思います。これは歴史学の話だけではなく、今のネット空間には、真偽不明のあやしい言説が溢れているからです。それらの言説がどういう根拠の元に主張されているのか。そんな主張する人の本当の意図、あるいは問題意識はどういうものなのか。そんなことを、松沢さんの言う、歴史学の方法で考えてみるのもいいのではないでしょうか。
次に読んだのは、星野智幸「焔」でした。kindle版で読みました。日本の小説については、芥川賞と谷崎賞の受賞作はできるだけ読むようにしています。この作品は、2018年の谷崎賞受賞作です。星野さんは芥川賞は受賞していないので、(三島由紀夫賞を受賞してデビュー。)私にとっては、これが初めての星野作品です。というわけで、どういう作風の作家なのか知らないで読んだわけですが、さすがに、大江さんが自ら制定した大江健三郎賞を与えただけはある、素晴らしい才能の持ち主だと思いました。
あの中上健次が受賞を切望しながらも、ついにかなわなかった谷崎賞は、野球でいえば沢村賞みたいな、本格派の長編小説に与えられる賞だと思われていましたが、最近の受賞作には短編連作なども含まれて、かなり多様な作品が選ばれています。この「焔」も、作者の多彩な才能を反映した、一種の短編連作小説です。構成としては「デカメロン」に似ています。いつの時代か、何が起こったのか、人類が死に絶えようとしている。残った人々は焔を囲み、その焔を眺めながら、一人一人、自分の物語を語っては消えていく。それらの物語は、あるものは、美しいイメージに満ちたSFファンタジーであり、あるものは諧謔と笑いをこめた風刺小説である。最後には、星野さん自身の分身が多数登場して、こうもあったったかも知れないそれぞれの人生を語ります。これで、全ての人が消えて物語が終わったと思ったら、最後に、「世界大角力共和国杯」という不思議な物語が登場します。全ての人間は消えたはずなのに、この物語はいったい誰が語っているのか。最後にその答えが書かれています。たぶん、これが星野さんがこの小説で書きたかったことなのでしょう。その答えは、ここでは書かない方がいいでしょうね。ご自分で読んで確かめてみ下さい。絶望から希望へ、読む価値がある素晴らしい小説です。
今月最後に読んだのは文庫本で、中沢新一+細野晴臣「観光」でした。私は蔵書家というほどではありませんが、我が家の本棚には、全集本やシリーズ本などをを中心に、いわゆる「つん読」本が かなりあります。それでも、文庫本や新書本は買ってから二、三ヶ月以内には読む事が多いので、書棚で埃を被るということはありませんでした。ところが、この「観光」は、中古本で買ったわけでもないのに、1992年に第2刷発行ということで、なんと30年以上も書棚で眠っていたことになります。どうしてなんでしょうね。今となってはわかりません。それはともかく、この本は今では稀覯本になっているようで、アマゾンではなんと13,000円の値段がついていました。売ろうかな?
それはともかく、この本は、副題が「日本霊地巡礼」となっているように、チベットから帰ってきて、ニューアカブームに湧く日本で若き知のヒーローとなった中沢さんと、YMO「散会」後も旺盛な活動を続ける国際的ミュージシャン細野さんが、日本各地の霊地を巡礼しながら、ビデオゲームや互いの仕事、スピリュアル体験などの話を気楽にするという対談集です。文庫本は平成時代になってからの刊行ですが、対談が行われて親本が発行されたのは昭和の終わりです。私は中沢さんの一歳下、細野さんは私の四歳年長ですが、ほとんど同世代のトップランナーたちが繰り広げる若き日の気楽なバカ話を読んで、細野さんの茫洋とした感じ、変に小難しい、よくわからない話をする中沢さんの饒舌ぶりも、年をとった現在とあまり変わっていないなと、とても懐かしく、その時代を思い返しました。
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