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「連載第二回」

 加藤清正の虎退治の話以来、朝鮮というとすぐに虎を連想するのはこの国の人々の習いになっていたから、お咲きも鼓二郎も、虎と聞いて、一層、耳をそば立てた。伝蔵が藩の先輩たちから聞いた話では、倭館の塀を飛び越えて虎が侵入する事は何度かあったそうである。倭館の番犬が何頭も喰い殺された。そんな時には、倭館の人間が数人で銃や刀を持って退治に出かけるのだが、ある時、二頭も出現した虎と大格闘を演じて、大怪我を負いながらも見事に仕留め、皮を剥いで、口上書とともに国元の対馬に送り、肉は焼いて皆で食べたそうである。その時には、経緯を聞いた朝鮮政府からご褒美が出た上に国元からも褒められて、中にはこの功績で新規に士分に取り立てられた者もでたという。これらの話を、伝蔵はまるで自分で見てきたみたいに身振り手振りを交えて話した。そんなわけで、いつの間にか雨森芳洲様の話がどこかに行ってしまった。しかし、お咲きはそれで十分満足したようだった。元々、芳洲の事にさほどの関心はなかったのだろう。

 以下は、鼓二郎がその後、雨森芳洲について独自に調べた事である。三十代になって初めて倭館に来て、漢文による筆談だけでは深い外交はできない、朝鮮語の習得がさらに必要だと痛感した芳洲は、対馬に戻ってから朝鮮語の学習に励み、翌年再び釜山に渡って、倭館に三年間滞在した。その間に、自ら朝鮮語の教科書や辞書までつくってしまった。それまで、朝鮮語は通詞たちが代代、家学あるいは職能として受け継ぐものであって、公には教科書のようなものは存在しなかったのである。かつて長崎で中国語を学んだ経験のある勉強家の芳洲ならではの仕事だった。芳洲はハングル文字も学んだ。朝鮮でも公式文書は漢字で書かれ、ハングル文字は女性や下層の人々が主に使用するものだったのだが、それでも芳洲はハングル文字を学んだのである。いかにも朝鮮の文化そのものを深く知ろうとした芳洲らしい。

 そんな芳洲がその才知と積み重ねた見識を遺憾無く発揮したのは、二度にわたって朝鮮通信使の接待役を務めたときだった。彼の「誠信外交」の信念は、その後の対馬藩の対朝鮮外交の指針となっただけではなく、通信使として日本を訪れた朝鮮の知識人をも感銘させた。しかし、それ以上に日本国内において芳洲の名前を広く印象付けたのは、かつて同門であった新井白石との対朝鮮外交政策をめぐる対立である。当時、新井白石は、綱吉を継いであらたに将軍職についた家宣の侍講、つまり政策顧問の立場にあった。朝鮮通信使は、代々、新将軍就任の祝賀の使いとして派遣されてきた。徳川幕府が使節の派遣を要請して朝鮮政府がそれを承認するわけだが、あいだを仲介するのは対馬藩の役目である。このとき、白石が新たな条件を課した。通信使の接待を簡素化することと、従来国書で使用してきた将軍の呼称を日本国大君から日本国王に変更することだった。簡素化については芳洲や対馬藩には異論がなかった。問題は国書の呼称変更である。室町時代には日本国王であった呼称を徳川の世になって大君に改めるについては、かつて仲介役の対馬藩と朝鮮政府との間に数知れぬ葛藤があった。朝鮮は何よりも名分を重んじる国である。ようやく落ち着いたところに、今また日本国王に戻すことは不可能だ。また、日本国王の呼称は天皇の権威を損なうことにもなりかねない。それが芳洲と対馬藩の考えであった。結局、芳洲や対馬藩の意見は通らなかった。しかしながら、大問題になると思われた将軍呼称の変更は、朝鮮政府側の高度な政治判断があって、事なきを得て実行された。しかし、幕府の中枢に対して堂々と反論した芳洲の行為は、その後、日本各地の心ある人々、特に尊皇思想の持ち主たちに記憶された。

 後から振り返って、結局、あの時の伝蔵は、倭館での虎退治の話に夢中になってしまって、敬愛しているという芳洲様については何も中身のある話はしなかったなあと、鼓二郎は今さらながら気がついた。何も知らなかったのかもしれない。あの時から程なくして芳洲は亡くなった。八十八歳の大往生だった。伝蔵とのつながりはその時かぎりで、もう会わないだろうと鼓二郎は思っていたのだが、意外なことに、対馬藩の京都屋敷、さらに大坂屋敷に勤務することになった伝蔵は、その後も何度か藩の使節のお供として岸和田にやってきた。朝鮮通信使は将軍の代替わりの時に派遣されるので、めったにあるものではなかったが、大坂での接待と警護の役を命じられている岸和田藩としては、対馬藩との平時の交際は欠かせないものだった。またそれは、岸和田藩にとっては朝鮮人参や中国の典籍などの異国の文物を入手する貴重な機会でもあった。しかしながら、鼓二郎にとっては、それは歓迎できない事だった。伝蔵が岸和田に来るということは、伝蔵とお咲きが会うという事でもあったからである。どうやら、いつの頃からか、二人の間では頻繁に文が交わされているようだった。だから、伝蔵が対馬に戻り、倭館勤務になったと聞いた時、鼓二郎は安堵した。しかし、雨森芳洲の死後八年、伝蔵が初めて岸和田に来てから九年目、新たな朝鮮通信使が日本に派遣されることになり、伝蔵が対馬藩の通詞の一人として一行に加わると聞いたとき、鼓二郎はしばらく忘れていた息苦しいような不安感に襲われた。お咲きはもう嫁ぐには遅いくらいの年頃になっていたが、武家や大店の息子を含む、幾つもの縁談を断り続けて大庄屋の父親を嘆かせていた。鼓二郎の両親も、子供は男子二人だけなので、実の娘のようにお咲きを可愛がって来たのだが、さすがにこの頃はお咲きの縁談を心配するようになった。それと同時に鼓二郎の縁談話を持ち出すようになったが、鼓二郎は断り続けた。それでも、皷二郎は、お咲きを嫁にしたいと父親に言うことはなかった。お咲きが自分のことを男として見ていない事が、鋭敏な鼓二郎にはわかりすぎたからである。お咲きの意中にあるのは伝蔵だろうと、鼓二郎は薄々感じていた。鼓二郎はお咲きに自分の思いを打ち明けることができなかった。もし打ち明けて、お咲きに拒絶されることを恐れたのである。せっかく今まで兄妹のように育ってきたのに、その関係さえなくなってしまう。鼓二郎の悩みは深かった。そんな時に、その後の三人の運命を決定的に狂わせることになる朝鮮通信使がやって来た。 いわゆる宝暦の通信使である。

                         (つづく)


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