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神須屋通信 #30

マンジロー桜に会いに行く

 桜も毎年開花の時期が早まっているようで、今年も3月中に各地から満開の知らせが届きました。私たち夫婦も4月に入ってすぐに、急いで毎年恒例の花見をしました。大阪市内の桜宮公園、大川左岸銀橋の南約50メートルにある「マンジロー桜」に会いに行ったのです。まだ植樹されて十数年の若木である桜は、元気に美しい薄紅色の花をいっぱいつけていました。建築家の安藤忠雄さんの提唱で「桜の会・平成の通り抜け」プロジェクトがスタートしたのは2004年の末でした。当時、広告会社に勤めていた私は中之島公会堂で開かれたプロジェクトの講演会イベントで裏方の一人を務めていました。安藤さんを控え室から演壇まで案内したり、安藤さんが用意してきたスライドを安藤さんの指示通りに映写したりするのが裏方の役目です。そこで、多くの参会者に募金のための用紙を配布しました。もともと建築や都市計画が好きで安藤さんの大ファンでもあった私は、すぐに募金に応じることにしました。

 実際に寄付したのは年が明けた2005年です。寄付は、私たちの愛犬マンジローの名前で行いました。職場の同僚の飼い犬が産んだ5匹の子犬の1匹をもらい受けたのは1992年のことです。マンション暮らしから一軒家に引っ越したタイミングとうまく合いました。他の兄弟たちが皆、茶色の短毛だったのに、1匹だけ黒い長毛で、身体が一番小さくてなかなか母親のおっぱいにとどかない子犬がいました。その姿が愛おしくてすぐにこの子犬をもらうことにしました。そしてマンジローと名付けました。マンジローは成長すると茶色になりましたが長毛のままで、目が毛で覆われるくらいになりました。その外見はいかにも愛らしく、朝夕、一緒に散歩していると、行き会う女性達が口を揃えて「可愛い!」と言ってくれたのは、飼い主としてとても誇らしいことでした。いや、飼い主ではありませんね。子供のいない私たち夫婦にとって、マンジローは息子がわりであり、まさに家族でした。桜の会に彼の名前で寄付をした時にはすでに老犬だったマンジローは、翌2006年に亡くなりました。13歳でした。

 私たちが寄付をした桜が植樹されたという知らせがあったのは、マンジローが死んでからです。さっそく見に行きました。添え木に支えられたか細い桜の樹でした。添え木には金属の銘板がついていました。20名ほどの人たちの寄付によって、この一本の桜が植えられたことがそれでわかりました。銘板には寄付をした一人一人の名前が刻まれていました。そして、その最後にマンジローの名前がありました。私たちは、その弱々しい桜の木を「マンジロー桜」と名付け、それから毎年春にここに見に来ることにしました。

 マンジローを飼う(同居する)ことに決めた時、子供の頃から犬を飼った経験のなかった私は(家内も)、犬の飼い方を書いた本の他に、当時のベストセラーだった、中野孝次さんの「ハラスのいた日々」を読みました。それは、愛犬をなくした悲しみと懐旧の念に満ち満ちた本でした。こんな悲しみを味わうくらいなら、いっそ、犬を飼うのはやめようかと思ったほどです。まるで、我が愛する詩人、佐藤春夫が「病」という詩に書いた文句「盃とれば酔いざめの悲しさをまづ思ふこと」そのものですね。祭りが始まる前に、祭りの終わったあとの空虚な気持ちを想像してしまうことは、やっぱり病気です。それでは振られることを恐れて愛を告白できない情けない男のようじゃないか。実は、その時もそのように考えて、いつか別れの日が来ることを覚悟しながら、マンジローとの日々を精一杯楽しもうと決心したのでした。そして、幸せな溺愛の日々が始まりました。

 「ハラスのいた日々」の最後は、石榴の話で終わっています。中野さんは、自宅の庭の片隅にハラスの亡骸を埋めました。その近くには石榴の樹が植わっていました。それからまる2年がたって、それまで貧弱な実しかつけなかった石榴に突然数倍の実がなりました。中野さんは、石榴の根が死骸に届き、ハラスが石榴の実になって戻ってきたのだと思ったそうです。桜の根元には死体が埋まっているという説話は昔からありましたが、「マンジロー桜」の根元には、マンジローが埋まっているわけではありません。でも、きっとマンジローの魂は桜の花になって毎年ここにやって来ているに違いないと、私たち夫婦は信じて毎春ここに通っています。数年前の、関空の連絡橋にタンカーが衝突した強風台風の時に、ここ桜宮の桜も大きな被害を受けました。でも、マンジロー桜は無事でした。これからも無事にすくすく育ってくれることを願っています。そういえば、このマンジロー桜は、すでにマンジローの年齢を越えています。

(追記)マンジローの名前は、ジョン万次郎から頂戴したんですが、植物学者の牧野富太郎をモデルにした朝ドラ「らんまん」に万次郎さんが登場して驚きました。若き日の主人公が高知で晩年の万次郎に会って、家業を捨てて植物学の方に進む決心をするというストーリーです。事実に基づいているんでしょうか。何年か前の東京旅行の際に、偶然ですが、万次郎さんの立派なお墓に巡り会ったことがあったので意外でした。

 


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