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千本松渡し a story #3/6

 三、北村まゆみから南希美子へのメール
  

希美子おばさんへ

 大阪ではすっかりお世話になってしまってありがとうございました。父の故郷であり、小説の舞台になった「千本松渡し」を見たいという私の願いが、こんなにも早く実現したのは、おばさんのおかげです。なんて大げさですね。東京と大阪だから、その気になればすぐに行けたのに。でも、やっぱり初めての場所に一人で行くのは不安でしたから、おばさんが一緒なのは心強よかったです。いえ、今回はもう一人余計な人がついてきましたね。おばさんは、私と安川さんのことをいつから御存知だったんですか。南おじさんの仕事上のパートナーでもあった建築家の安川さんは、私よりもずっと年上のバツイチだったし、私もまさかこんなことになるなんて、想像もしていませんでした。母とおなじように英語の教師になるつもりでいた私が、建築家に志望を変更したのは、自身が建築家をめざしたことがある、南おじさんの影響なんだと思っていましたが、実は安川さんの影響でもあったんですね。私もいつの間にか三十路に入ってしまいましたので、そろそろいいかなという時に、目の前にいたのが安川さんだったというわけです。

 私の大学時代、おばさん達ご夫婦と一緒に、白浜や勝浦などの紀伊半島を旅行した時に、中上健次の故郷である新宮にも行きましたね。その時、どういうわけか、安川さんが合流して、移築された佐藤春夫邸や、文化学院の創立者である西村伊作邸を案内してくれたことがありました。二人とも新宮の出身者だったんですね。その時、南おじさんの母校である大学や神戸女学院、それに大丸百貨店などを設計した建築家のヴォーリズと西村の建築事務所がコンペで競合した話などを面白ろおかしく語ってくれました。たぶんその時が、私が建築に興味を持ち始めたきっかけだったのだと思います。             

 いけない、いけない。このメールは私と安川さんのなれそめを書くのが目的じゃありませんでした。「千本松」のことでしたね。通称「めがね橋」というらしいですが、建築家のはしくれである私としては、千本松大橋の構造に目がいってしまって、安川さんと一緒に、橋の話ばかりしてしまったんですけど、考えて見ると、父の少年時代には、この橋はまだなかったんですよね。でも、大正区側のループの下で、少年達が野球をしていた光景には、とても感慨深いものがありました。ですから、渡船に乗って川を往復したとき、私は、できるだけ、橋がない時代の景色を想像するように努めたんですけど、希美子おばさんは、渡船の名前が「はるかぜ」だというのに気づいて、蕪村の「春風馬堤曲」の話を始めましたよね。いかにも希美子おばさんらしいなとおもう反面、ちょっとあきれてしまいました。何を見ても建築の話にしてしまう安川さんといい勝負です。でも、蕪村の時代に遡ると、父の小説によれば、この辺りは天橋立のような景色だったんですよね。まったく信じられませんでした。

 渡し船の旅はあっという間に終わってしまったんですが、貴重な体験でした。父の小説に出てくる尾道の渡し船には、私はまだ乗ったことがありませんが、大林映画で見たことがあります。あちらの渡船は車も乗れるんですね。でも、有料だと聞きました。千本松の渡しは歩行者と自転車だけで、道路代わりだから無料だという違いがあります。でも、橋ができるまでは、車の人は不便だったでしょうね。まあ、マイカー通勤なんてない時代だったし、祖父も自転車で対岸の工場に通っていたそうですから、それでもよかったんでしょう。いずれにしても、ここへ来て、父が東京の住まいを、隅田川が見えるエリアに決めた理由がわかったような気がします。父にとっては、川こそが故郷そのものだったんですね。私にとっても、はじめて来たのに、なにか懐かしい気がする場所でした。

 今回の大阪滞在では、マンションに泊めていただいたり、いろいろとご配慮いただいてありがとうございました。今度は希美子おばさんと二人で、久しぶりにのんびりと京都や奈良などを歩いてみたい思います。神戸や大津もいいですね。関西は、それぞれに個性のある都市がすぐ近くにあって、とても好きです。京都で過ごした大学時代の四年間が、本当に懐かしい。では、また。希美子おばさんの大切な同居猫、こゆきとマツコにもよろしく。

                             まゆみ


                                                       ☆☆☆              


  希美子おばさんへ 

 東日本大震災の時には、崩れた大量の蔵書の下敷きになって死ねればよかったのに、なんて冗談を言っていた父ですが、まさかこんなに突然死ぬなんて思ってもいなかったと思います。なにしろ、南おじさんより長生きしたといっても、まだ62歳でしたから。もともと糖尿病があったんですが、普段は元気そのものでした。脳梗塞だなんて想像もしていませんでした。一人暮らしのマンションで倒れたのが不運でした。早く処置をしていたら助かっていたかもわかりません。なんて話は、希美子おばさんにはもう何回もしましたね。いまさら後悔してもはじまりません。

 さて、これからが本日のメールの本題です。父の遺品はほとんどが本だけでしたが、父の記者時代の友人や、新聞社を辞めてから非常勤講師をさせてもらっていた短期大学の人達が手助けしてくれて、その整理も一段落してから、父のパソコンの中を覗いてみました。その結果、南おじさんが亡くなった後の、希美子おばさんとのメールのやりとりを知り、父が保管していた「夏花」が、希美子おばさんの処に行っていたことを知ったわけですが、その時に、父が手元に残したはずのコピーが見つからず、結局は、おばさんに「夏花」を送っていただいたというわけでした。でも、その時には気づかなかったファイルを発見したんです。あの時にはメールだけじゃなく「書類」フォルダの内容もいちおうは確認したつもりだったんですが、先日、希美子おばさんに言われたので、大阪から帰ってからもう一度点検してみたら、外付けハードディスクの中から、なにやら小説の草稿のような文書が出てきたんです。驚きました。

 いや、そうでもないですね。なにしろ、南おじさんたちと、高校時代に「夏花」という同人誌を出した人ですからね。きっと、希美子おばさんが送ってくれた「虎とホーキ星」に刺激を受けて、自分でも何か書く気になったことは、十分に予想できたことでした。それも、単なる「自分史」ではないものを。希美子おばさんの読み通りです。だから、父のパソコンの中に、自伝的小説の下書きのような断片を見つけた時は、ちっとも驚かなかったんですけど、中身が意外なものだったんです。なんて、思わせぶりな事を書いてしまいましたが、実は、その小説は、娘の私が主人公なんです。それを読むと、どうやら父は、私と安川さんのことも感づいていたようです。それにしても、父はどうしてこんなものを書こうとしたんでしょう。なにはともあれ、添付書類で送りますので、希美子おばさんも一度読んでみてください。そしてご意見を。いつもいつも面倒なお願いばかりで申し訳けありません。

 そうそう、この小説(の草稿)には、「夢のなかへ」という、まるで井上陽水の歌みたいな題が、仮題としてつけられていました。父は、私が生まれる前からの陽水のファンでした。

                              まゆみ


   


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