セールス・ガールの
きのうのこと。
お昼すぎ、ベンチに腰掛けていた。二転三転する空模様に半ば呆れつつも、日が差す時間帯の、あの包まれるような暖かさ、これには敵わない。浮遊する視線は足元に舞い降りる。
なんの変哲もない影ではあるが。
物質としての存在の証左、とでも言ってみる?まあ置いておいて。
さて、〈月一映画観る会〉だが辛うじて五月開催に漕ぎ着けた。今回の作品は『セールス・ガールの考現学』なるモンゴル映画。良かった、うん。"考現学"なる要素についてはわざわざタイトルに入れるものなのか、とは思いもしたが。
先ずは始まりが肝心。オープニングカットから"映画を撮っているんだ"という製作側の強い意志を感じ取る。以後も多用される長回し。執拗に映し出される、被写体が消えた後に残る空虚な画。私も呼応する。映画だ!映画を観ている!!!我鑑賞者也!!!!!
所々流れる映像のMVっぽいのがまたエネルギッシュで堪らない。欧米的ドラマにアート風味のテイストとインド映画のテイストをそれぞれふた摘みほど振り掛けた仕上がりは、新奇な味ながらどこか馴染めるような舌あたりに仕上がっている。
恐らく、個人的に劇場から足が遠ざかっていたことも相まったのだろう。やはり"映画"はいいな、なんて。毎度こないなこと言うとりますが。劇場は月に三、四回くらいがちょうど良いのかしら。
同じような"久し振りの劇場話"にはなるのだけれど、これは個人的"あるある"なるもので。予告で流れる映画全て観たい病が発症するのだ。頻りにやいやいと小言を挟んでは、隣の相方をうんざりさせた。反省はしていない。
作品に話を戻して。主人公サロールとカティア、二人の女性が主として描かれているが、彼女らが生きる"いま"は過去、そして未来に変化を齎す。
冒頭の影の話ではないが、時間軸を超えた自らの自らへの作用こそ、"いま"を生きているという証左であり、"生きる"ということの意味なのではないだろうか一一一
なんて。
ああ、公開直後なぞでは無いはずで、且つ平日であるのに、沢山人が入っていて吃驚した。それだけ。
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