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こころの贈与論

こんばんは。マニマニです。

大学時代、私は哲学を専攻していました。
そのゼミの1つ上の先輩が取り上げていた贈与論の話をしたいと思います。

マルセル・モースの贈与論

この本は社会制度における贈与の役割について、
当時西洋が貨幣経済になったことをちょっとディスってるような、憂いているような
まあなんかとりあえずそんなことを"贈与の義務"
なんていうちょっと強めな言い方で論じている、古(いにしえ)の有名な一冊です。
(お詳しい方、こんな雑すぎる説明でごめんなさい)

さて、モースは贈与に関して3つの義務を提唱しています。


1.与える義務
:与えるのを拒んだり、招待をしないのは、戦いを宣するに等しい。ヨーロッパの伝承にもあるように、招待を忘れると致命的な結果となる。

2.受け取る義務:贈り物を受け取らなかったり、結婚によって連盟関係を取り結ばない、といったことはできない。受け取りを拒むのは、返礼を恐れているのを表明することにもつながる。

3.返礼の義務:この義務を果たさないと、権威や社会的な地位を失う。権威や社会的地位が財や富に直結する社会では、返礼が激しい競争をもたらす場合がある。

(Wikipediaより引用)


書かれていることが普通に怖い。

けれど日本でも年賀状やお中元、各種お祝いに関する内祝いの文化等々、どこかしっくりくる気がする、いやむしろ日本は世界の中でも贈与の義務が色濃く残っている気さえします。

この贈与論を先輩は、精神的側面においても通ずる概念なのではないかと論じました。


無形の贈与

贈与論とはそもそもgift(ギフト)に関するものですが、先輩は、"与えられるもの"として感情やことば、態度までをもgiftであるとしました。

これにラカンの鏡像段階理論を紐づけて、より分かりやすく
他者からのはたらきかけは 自己の他者に対するはたらきかけへ大きく影響すると結論づけました。

つまり、
優しさを与えれば相手はその優しさを受ける義務を負い、
その優しさに対し私へお返しをする義務を負う。
そして私は優しさを与える義務を持っている。

ということです。

贈与の構図はリサイクルマークと同じかなと思います。

自分における起点は紛れもなく自分です。
自分が与える義務を全うすれば、そこから循環が始まります。

さて、上記の例えは "優しさ" であらわしましたが
この理論で言えば、無形の贈与論は
"怒り""喜び""悲しみ"
どんな感情においても同じように適用されうるといえるでしょう。

つまり"ネガティブな贈与"の仕組みも簡単に成り立ってしまうということです。

ここがモースの贈与論と違う点ではないでしょうか。

先輩はそこに鏡像関係をうまく交え、非常に説得力のある論文を仕上げていました。
今でもこうして覚えているくらい、当時何度も読んだ記憶があります。


実生活における感情の贈与を考える

仕事をしていると、営業的コミュニケーションが必要なシーンはどんな業種でも出てきます。

その多くがwin-winの内容であればいいのですが
双方の思惑や心理的な駆け引き…綺麗でないことが多いのが現実です。

とりわけ取引業者や元請、立場や関係性が明確な場合、こちらが苦汁を嘗めることに…

私は悪いことをしてないのに。
間違ってないのに。
私が強く出れないのを知ってるから、利用しようと思ってるんだ…
なんてモヤモヤする場面、たくさん経験してきました。

このことについて先日すこし立ち止まって考える機会があり、そのとき贈与論のことを思い出しました。

自分にとってポジティブでない対話を持ちかけられている時、それはいつのまにかネガティブな贈与がはじまっているのです。

相手は私にネガティブな感情を与える義務を負い、与えた。私はそれを受け取り、相手へ返さなければならない。

ふと思いました。
起点をどうにか私に変えられないかしら。

私は彼からネガティブな贈与を受け取ったけれども、それと並行して、私からポジティブな贈与を与えることはできないかしら。

こんな難しい言い方をしなくても
つまるところ「どんな相手でも優しくしようね」ということなんですが。笑

このある種お人よし的な考えも実は理にかなっているのか。
先手を打って優しくすることが、結果自分へも返ってくるのではないか。

そんなふうに考えると、少しお人よしになって、イヤミを言ってくる相手にも優しさや思いやりをgiftしてあげてもいいかな。

なんて、イジワルな私でも、少し優しくしようと思える気がしたのです。


こだまでしょうか

優しくするってむずかしいです。
嫌なことされたら、嫌なことし返したくなります。

そんなとき、少しだけ先輩の卒論を思い出して、グッと堪えて、優しさを自分起点で提供してみよう。

今のところこれが私の2024年の目標になっています。
(さて実行できているかはまだ聞かないでください)

最後に、贈与論や鏡像理論を考えているといつも思い出す有名な詩を紹介して終わりたいと思います。


 「遊ぼう」っていうと

 「遊ぼう」っていう。

 「馬鹿」っていうと

 「馬鹿」っていう。

 「もう遊ばない」っていうと

 「もう遊ばない」っていう。

  そして、あとで

  さみしくなって、

 「ごめんね」っていうと

 「ごめんね」っていう。

  こだまでしょうか、

  いいえ、誰でも。

 
金子みすゞ 「こだまでしょうか」



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