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月と六文銭・第十八章(04)

 竜攘虎搏りゅうじょうこはく:竜が払い(攘)、虎が殴る(搏)ということで、竜と虎が激しい戦いをすること。強大な力量を持ち、実力が伯仲する二人を示す文言として竜虎に喩えられ、力量が互角の者同士が激しい戦いを繰り広げることを竜攘虎搏と表現する。

 武田は同僚・田口静香たぐちしずかと日本に侵入した中国の敏腕スナイパー・張敏正チャン・ミンジェンのターゲットが何かを一緒に考えた。来日する国家元首ではなく、西側の諜報合同会議ではないかと目星をつけたが、会場が外部の人には特定しにくいのでこれもないだろうとの結論に向かった。

~竜攘虎搏~

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 首を傾げて考えていた田口が首を正し、口を開いた。

「会場の特定が難しいから『ナイン・アイズ』の会議場ではなく、特定の参加者を狙うことになるのかしら。
 どちらにしても、そんなことをしたら中国の微妙な立場が一気に悪化することを自分たちが一番分かっていると思いますが」
「それなら目的は狙撃ではなく、警告するためとか?」
「警告が目的なら鉄矢ツィーシーを投入するのはもったいない、というか、ある程度の腕前のスナイパーで十分ですし、もし鉄矢が捕まったら逆に大きな損失になっちゃうと思いますが」
「それじゃあ、ターゲットは『ナイン・アイズ』じゃないな」

 武田にとって鉄矢は興味深い存在だった。田口にとって他の組織の工作員であっても、ある意味同類と感じるのと似ていた。スナイパーである鉄矢は武田にとっては同類であり、ライバルでもあった。

「わざわざ別の国に派遣されるカバーストーリーを用意してまで日本に来るからには、それなりのターゲットがあるはずだ」
「そうですよね。
 本部に追加情報を申請しておくわ」
「お願いします。
 何か分かったら教えてください」

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 田口との電話が終わったところで、オフィスのドアをトントン叩く音がした。武田はドアに向かって「どうぞ」と声を掛けた。
 ドアが開き、総務経理の松沼まつぬま和香子わかこが覗き込んできた。

「武田部長、ちょっとよろしいですか?」
「はい、どうしました?」

 松沼はドアを開けた状態でその前に立って用件を伝え始めた。

「パリ出張の件ですが、エトワール・サンテ=ノールと少し調整が必要となりまして」
「何の調整が必要ですか?」
「昨年よりも宿泊料が2割も上がっておりまして、予算措置が必要です。出張の決裁書を出し直していただく必要が生じています」
「あ、どうぞ座って」

 武田は自分のデスクの前の椅子を指して、松沼に椅子をすすめた。
 松沼は軽く会釈して、部屋には行ってきて、スッと椅子に座った。
 松沼の座っている姿を見て、自分の魅力が引き立つスーツを選択しているな、と武田は思った。

「金額は具体的にどうなるのですか?」
「ユーロでの支払いのため、現在円安で昨年比8%上がっていることに加えて宿泊料金自体も1割以上も上がっています」
「金額を変更して決裁書を提出し直したら十分ですか、それともほかにも変更しないといけない事項はありますか?」
「現状では金額だけです」
「大き目のベッドのある部屋は変更する必要はないのですね?」
「はい」
「それでは申し訳ないが正確な数字をメールで送ってもらえますか?」
「前の決裁書に赤で書き込んでおきましたので、こちらを参考にしていただけたら問題はないかと思います」

 松沼は赤ペンで修正した金額を書き込んだ決裁書のコピーをで持ってきていて、中腰になって武田の机の上に置いた。
 さりげない動きに見せかけて、しっかりとブラウスの中の胸の谷間が武田の視線の真ん中に来るように動いていたのは、今時の言葉でいう"あざとい"となるのだろうか。

 因みに若手がよく間違えるのはケッサイの字だ。物事を決めたり、許可を貰うのが"決裁"で、お金のやり取りをして、決着を付けるのが"決済"だ。
 もう一ついうと、借金のお金を返してもらう権利を"債権"、その証書だったり、取引に使用できる形にしたのが"債券"だ。今はほぼ電子化されているが、昔は本当に紙の債券があった。逆に、お金を払わないといけない義務の方は"債務"だ。
 金融機関に勤めていても意外と間違えるし、気が付かないものだ、と武田は思いながら松沼が渡してきた決裁書の修正案を見ていた。

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 武田は渡された決裁書案を見ながら、松沼は仕事が早いし、丁寧だし、気が利く、と思っていた。

「松沼さん、ありがとうございます、助かります」
「いいえ、お互いに早めに進められたらと思いまして。
 ところで、部長はお一人で行かれるのですよね?」
「そうですよ、どうして?」
「他の方はベッドがシングルかセミダブルで予約しているのですが、部長だけキングサイズになっていまして」
「あ、僕は寝相が悪くてね。
 ひどい時は逆様になっていて、脚を枕に乗せて寝ていることもあるんですよ」

 松沼は吹き出しそうになりながら神妙な顔で話を聞いていた。

「それで広いベッドがいいのですね」
「広いと転がっても、横向きに寝ていても大丈夫でしょ?
 キングサイズって2メートル掛ける2メートルで、ほとんど真四角だからどの方向で寝ても問題ないかなと」
「はい、まぁ、そうですが」

 松沼は必要な情報を得て、すぐにでも決裁書が変更できると思った。他の人はいろいろ手がかかるのに、一番丸投げしそうな外資出身の武田が一番手が掛からないのが不思議だった。

「お手数だけど、決裁書の原稿をよろしくお願いします」
「あ、はい、実は新しい金額を反映した原稿はもうメールで送ってあります」
「あ、本当だ、ありがとうございます」

 武田は松沼と話しながら原稿を修正し、電子印鑑を押印して、松沼宛に送り返した。

「今返送しましたので、専務から順に回していただけますか?」
「はい、もちろんです、承知いたしました。
 ありがとうございました」

 ここで「了解しました」と言わない松沼はポイントが高い、と武田は思った。
 なんでも「了解しました」と言えばいいと思っている若手が多すぎて疲れるのだ。誰に向かって了解したのか聞いてみたくなるがそんなことをしている暇はない。少なくとも、若手は自分が何を言っているのか分かっていないことに疑問を感じない点が問題で、それは人事部の新人教育が半端だからなのを人事部が分かっているのか聞いてみたい衝動に駆られるが、暇な人と思われるのがこれまた面倒なので、武田も捨て置いている状況だった。

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 早い。手間がかからない。これだから武田部長は周囲に嫌われるのだろうと松沼は思った。
 日本の会社では上に行けば行くほど下の者を使おうとする。一説には自分達がそうされてきたから、偉くなったらそれが当然のように習慣化されていくそうだ。
 それを武田は若い頃に嫌というほど経験したから、下の者にはさせないと決めているらしく、自分の仕事は自分でする。仕事ができるだけでなく、早いし、正確だ。次は武田部長の秘書になれたらいいな。

 オフィスでは恋人・のぞみを含めて、女性を極力見ないようにしている武田だったが、六本木のホテルの窓辺で交わっている松沼を見て以来初めて彼女の体型を見ることになった。
 上から下まで眺めていたら、それだけでもハラスメントとされるので、全体をパッと見てから手前のスクリーンに視線を戻した。近づく松沼は背が高く、スタイルは良いが、少し全体的に厚みがある感じがした。上から見たら前後が薄めの楕円形をしている日本人に比べ、多分上から見たら円形に近く、体に厚みを感じる要因なのだろう。
 それに加えて、あのホテルの窓辺で目撃した大きな胸がバーンと前に突き出ているロケットおっぱいなら、上司(当時)の桐生きりゅうのみならず、武田含め、一般の男性は間違いなく興味を持つだろうと思った。
 今日もスーツの中のブラウスのボタンをギリギリまで外してあって、谷間を強調していた。窓辺で見たとおり、それなりのボリュームのある胸だ。それが突かれる度にブルンブルン揺れていたので、胸の豊かでない女性だったら羨ましがることだろう。

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