見出し画像

月と六文銭・第二十一章(15)

アムネシアの記憶

 記憶とは過去の経験や取り入れた情報を一度脳内の貯蔵庫に保管し、のちにそれを思い出す機能のこと。
 武田は複雑かつ高度な計算を頭の中だけで計算できた。スーパーコンピューター並みの計算力ではあったが、それを実現するにはある程度の犠牲を伴っていた。

<前回までのあらすじ>
 武田は新しいアサインメント「冷蔵庫フリッジ作戦」に取り組むため、青森県に本拠を置く地方銀行・津軽銀行本店への訪問を決定した。津軽銀行がミーティングを快く受けてくれたおかげで武田は自分の隠された仕事の日程を固められた。
 出張の朝、武田は人身事故の混乱に巻き込まれ、銀座駅で動けずにいた。何となく初めて交際したスーパーモデルのことを思い出していたところ、ディーラーの橋場紗栄子はしば・さえこと同じ車両に乗り合わせてしまった。

15
 社内放送で列車が動き出すとアナウンスがあり、ホームに出ていた乗客の多くが車内に戻り、再び混雑した。
 武田は目を閉じていたが、鞄か膝が自分の膝に当たったため、目を開けて目の前の人を見てみた。

「おはようございます!」

<ん?何だこの爽やかな声は?しかも、自分を知っているかのような親しさ>

「武田さん!
 朝から災難ですよね?!」

<まさか!>

 武田の前に立っていたのはリード・ディーラーの橋場紗栄子だった。
 ディーリング部長の座を狙っていた中堅女性で、会社が外部から木下尚子きのした・なおこを部長に充てたことから、へそを曲げて事務がスボラになっていた時期があった。武田もそう言う態度が好きではなかったため、橋場とは距離を置いていた。橋場も武田が木下を評価していると聞いて、それまで何かと好意的に行動していたのが、パタッとなくなっていた。

<女性を潰すのは女性>

 日本に限らず、欧米でも女性の昇格・昇進の邪魔をするのが先輩女性だというのが広まり、女性上司の下に女性をつけることに慎重になっていた。AGI投信でも営業部門の先輩後輩間で問題が度々発生していたし、個人芸で成り立つトレーディングはそれでなくても我の強い連中の集まりだった。
 ましてや在籍が長く、細かいことまで分かっていた橋場にしてみたら、当然「次は自分でしょ!」と思っていただけに、面白くなかったようだ。
 しかし、木下はフェアな人で橋場の意見も他の男性トレーダーの意見も公平に扱い、効率の良いトレーディング部を作り上げようと努力していた。交代制の徹底がその一つで長時間労働になりがちだったトレーディング業務も実働8時間勤務を基本とする前後交代制になって体も楽になった。引継ぎと情報共有の徹底も効果を発揮し、それまで度々他部署から問題視されていた「取りこぼし」が大幅に減った。
 当然、上の覚えがめでたいのは木下だから、長く在籍しているメンバーらは面白くない。かなり強引に意見をねじ込もうとする橋場と全体のバランスを考えながら進めようとする木下では対立が起こるのは当然だった。もちろん、社長や専務が味方する木下の方針が通るので、橋場はことさらに木下の上げ足を取ろうと躍起になる。
 橋場はそれでも本業が疎かにならず、債券からの注文、株式からの注文、自己勘定の取引もきちんとこなしていたので、怖いものなしに意見を木下にぶつけるのだった。

「お、橋場さん!
 久しぶりですね!」
「はい、新人歓迎会以来です」

 橋場は可軽く頭を下げた。

「朝から事故で混乱って、最悪ですね!」

 今の銀座駅は当然銀座線が通っているが、少し離れたところに日比谷線と丸ノ内線があり、もう少し先に行くとJRの有楽町駅があり、乗換人口の多い駅といえた。
 武田は銀座線で虎ノ門に向かおうとしていたし、橋場は元々日比谷線から銀座線に乗り換えて虎ノ門駅に向かおうとしていた。ちょうど同じ車両に乗り合わせ、橋場の鞄が武田の膝に当たったようだが、わざとぶつけたのは橋場が武田と話したかったからで、武田が目を瞑っていたのを寝ていると思ったからだった。

<ニューヨークにいた時に…>

 橋場は最後の大物独身者の武田がバリバリの外資的な働きをしているのを知っていたため、女性と付き合っていないことを理解していたし、狙っていた節があった。
 ニューヨークに行く度にNYオフィスに挨拶に行き、スタッフにもお土産を届け、社長の武田に対し、ランチをしながら近況報告と米国出張の内容説明をした。同行のチームメイトがいる時は3人で、或いはその分野に詳しい現地スタッフを混ぜて4人でランチすることもあったが、なぜかディナーは2人きりで行くことが多かった。

 当時の武田は、韓国系モデル・サァラ・イーと付き合っていたため、社員とのディナーはあくまでも社員とのディナーにとどめ、サラッと別れて帰宅していた。
 武田が橋場とディナーに行くのは、彼女は頭の回転が速く、関西のノリを武器に武田を笑わせることが上手だったからだ。
 しかし、夜の相手となると、橋場のボディは魅力的には映らなかった。サァラのボディに比べたら、同じアジア系で同等の迫力を持った者は中国の大女優、リー・コンくらいだろう。だから、武田も他の女性に見向きもしなかったのかもしれない。

 背丈、体格だけで言えば、パパ活女子・リウ劉少藩リウ・ションファン)が近いかもしれなかった。同じアジア人との関連性もあるから、比べ易いのかもしれなかったが、現在勉強中の刘に比べ、自分のボディをどう動かしたら魅力的に映るか、相手を楽しませられるか、自分が気持ち良くなれるか、大胆な動きを繰り広げるサァラとの行為とは比べるのに無理があった。
 自分の上で腰を大胆に振って、唸るような腹の底から出している声は凄かったと今でも思うが、思い出すたびに男根が頭をもたげるのが困りものだった。実際、今も武田の男根は硬度10でズボンの前を最大限に突き上げていた。

<まさか、橋場、観察してないだろうな>

 武田は床に置いてあった鞄を取り上げ、腿の上において隠した。

「ごめんなさい、足元、邪魔かと思って」

 正しいマナーは女性に席を譲ることだが、席を譲って立ったとしたら、橋場の眼前にズボンのツッパリを突き出す形になりそうだったのを避けた。

「部長って、今でもイスラエルのモデルと付き合っているのですか?
 先日はスロバキアのモデルと一緒だったとカブ(株式運用部)で盛り上がったみたいですけど?」
「ははは、ニューヨークによく来ていた橋場さんはどう思いますか?」

<朝の電車の中なのに、大胆にもモデルと付き合っているのか聞いてくる橋場はどういう思考回路なのだろう?確かに、本人に聞くのが一番いいとは思うが、場所とか時間帯とかは気にならないのだろうか?>

「分からないです。
 確かダニエルズ・サウスにいたモデルですよね、ビアトリスって?」
「よく覚えていますね!
 僕が友人のモデル達と食事に行った時ですね」
「そうです。
 私がオルタナ・フレックスの市場調査でNYに行った時です」

 武田は橋場に頼まれて、当時一番勢いのあったダニエルズがSOHOに新しく開いたフュージョンレストランの予約を取ってあげたことがあった。
 そのことを忘れて、武田はダニエルズ・サウスで南欧と中華のフュージョン料理をニューヨーク・ファッション・ウィークに来ていた東欧系のスーパーモデルのビアトリス・クルシコフと元ミス・イスラエルのラーナ・エフレイム、弟で俳優のシローン・エフレイムと食事をしていたのだ。

「ミス・イスラエルのラーナ・エフレイムと今は付き合っていないし、ビアトリス、先日のスーパーモデルは頼まれて東京を案内していただけですよ」
「そんなこと、モデル事務所とか、雑誌社やテレビ局がやるんじゃないんですか?」
「個人的なお付き合いの延長で頼まれたものだから」
「へぇー、そうなんですか」

 納得したのか、橋場は別の話題に切り替えた。

「シーヴィッド、流行しますかね?
 どれだけ影響が出るのか予想が全く立たないんですよね」
「致死性が低いからコレラ、ペストやスペイン風邪みたいなことにはならない気がするけど、ほとんど情報がないですから」
「武田部長でも知らないことがあるんですね」
「それは幾らでもありますよ」
「例えば?」

<何が言いたいんだ?何を言わせたいんだ?「君のバストサイズ」とかセクハラ発言を引き出したいのか?関係ない女性に時間をかけるのは大いなる無駄だからやめておこう>

「ファーマ(製薬会社)が一番難しいと思っています、投資先としては。
 新薬開発の仕方が昔と違うし、そのため、開発スピードも違ってきています。
 あっという間にジーヴィッドのワクチンができてしまう可能性だってありますから」
「ワクチン開発って大変なんですよね?
 日本はいつも欧米に負けているから、今回はしっかり国産ワクチンで対策を取ってほしいものです」
「そうですね。
 ところが、日本ではワクチン訴訟というのが一時期多くて、日本の製薬会社は国の要請を受けてワクチンを開発したのに、問題があると製薬会社が訴えられて、名前に傷がつくというか、評判が悪くなることが頻発しました。
 このため、国内製薬会社はワクチン開発製造に消極的なのです」
「そういうことがあったんですね。
 日本の製薬会社も欧米に負けず、さっさとワクチンを開発したり、菌を排除する薬剤を開発できないものですかね?」
「ご存知のように、開発するための研究費と時間、製造ラインを整えるための設備投資の2要素が満たされないと難しいですね」
「そして、訴訟にも備えないといけない、と」
「今は集団訴状がしやすい法整備がされているから、ますますミスが許されない状況だと言えますね」

 列車は次の駅・新橋に到着し、ほとんどの人がすごい勢いで降りていくのを武田は眺め、隣の席が空いたので、橋場がそこに座った。あと一駅だが、何となく座れると良かったと思うのが通勤地獄を毎日経験している通勤客の気持ちと言えた。

サポート、お願いします。いただきましたサポートは取材のために使用します。記事に反映していきますので、ぜひ!