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月と六文銭・第六章(8)

 帝国ホテルのタワーでのひと時を楽しんだ武田と板垣いたがき陽子ようこだったが、食事もプレゼントも嬉しかったものの、一番嬉しかったのはあのメルセデスに乗る機会を得たことだった…

~陽子の初体験~(1)


 陽子は銀座から日比谷までの短い距離だったが、初めて500Eの走りを体験できた。そして、その実力の片りんを感じ取ることができた。

 しかし、本音ではその走りをもっと味わいたかった。

 幸福感で満たされた陽子は帰りも楽しいドライブになるだろうと思っていた。
「せっかくだから、少し走らせてから戻りますか?」
 武田は500Eのルーフを撫でながら、陽子にウィンクした。
「ぜひお願いします」
 陽子は嬉しいそうに言って、すっと助手席に収まった。
 500Eの走り出しはスムーズだった。ボンネットに収まっているエンジンの実力から考えたら、よちよち歩きをしている程度と言えた。

 武田は首都高のランプが見えるところまで来て、ハザードを焚いて、路肩に車を停めた。ベルトを外し、ドアを開け、車を降りた。
 陽子は武田の行動が何を意味するのか分からなかった。
 武田は開けっ放しのドアから覗き込んで、陽子に話しかけた。陽子は武田の次の言葉を予想していなかった。
「普段は他人に運転はさせないのですが、運転してみますか?」
「え!?いいんですか?」
「まぁ、無理な運転はしないと信じていますよ」
「はい、もちろんです!」

 陽子は助手席から飛び出すくらいの勢いでドアを開けそうになったが、既に助手席側に回っていた武田に止められた。
「急に開けると危ないですよ」
「す、すみません、つい…」

 武田はゆっくりとドアを開けて、陽子に手を添えて車から降ろした。
「本当にいいんですか?」 
「ああ。陽子さんがこの車にとても興味を持っているみたいなので、誕生日のプレゼントの一部と思ってください」
 陽子は武田にキスして、車の後ろを回って運転席に収まった。
 武田が助手席に収まった時には、陽子はシートの調整を終え、シートベルトを締め、ミラー類を調整していた。


 武田は陽子にコースを任せるつもりだったが、一応、東京タワーの横を通るコースを提案した。
「都心環状線を2周くらいしたら、車の実力が分かると思います」
「シーワンね」
 首都高都心環状線、近年ではC1シーワンと呼ぶ人が多いが、昭和の時代から走っている連中には、いまだに都心環状線と呼びぶ者の方が多かった。

 武田も大学生の頃から走っていたので、環状線と呼ぶことが多かった。適度な直線とカーブ、そして、アップダウンのあるコースはいろいろな車の特性を知るには好都合だった。

 FRで前後異サイズのタイヤを入れて、エンジンは小径ターボで早めの立ち上がりを重視したセッティングで走った。2リッター4気筒ターボでは、すぐに限界が来た。

 ちょうどその時期にN社がバブル期に開発費を惜しまずに出したGT-Rは、エンジン排気量の大幅アップ、ツィンターボ化による馬力の引き上げとレスポンスアップが図られていた。
 そして、最大の武器は、後輪駆動をベースとしながらも路面状況に応じて完全な4輪駆動へと移行するシステムを搭載していた。

 ラリーでの4輪駆動の有効性は証明されていたが、それをレースへと応用したN社の技術陣は、レースカーに新時代をもたらしたと言えた。

 車は急速に進化していたものの、それを運転する人間と首都高という道路自体は何ら変わっていなかった。それを忘れていた走り屋たちによる一般車を巻き込んだ大きな事故が増えだしたのがこの時期だった。

 4輪駆動によるトラクションのアップが走行速度の上昇をもたらし、グリップが破たんした時の事故の大きさがエスカレートしたもの事実だった。

 陽子も初めは大人しく運転して、車の癖を知ろうとした。
「すごく安定している車なんですね」
 2周目に入って、少し慣れたのか、陽子はブレーキングポイントを奥に取るようになったし、早めにアクセルを開いて、スピードを上げた。

 それでも車体が路面に吸い付くように走り、カーブの立ち上がりも安定していて、どのタイヤも破綻しそうになかった。

 武田は助手席から東京タワーを眺めていた。さっきまで食事をしながら見た東京タワーを自分の車の助手席から見るのは本当に不思議なことだった。

 陽子の運転はあまり心配が要らなかった。A級ライセンスを持っていて、サーキットも走っているだけに、加減速は小気味良く、カーブでのハンドルワークも丁寧だった。

 ハイペースで走るメルセデスのセダンを追ってくるスポーツカーなどもいたが、陽子は無視して、自分のペースで500Eのパワーと安定性を楽しんだ。


「オジサマがSLをセダンにしたらこうなると言っていたけど、想像していたのよりもすごいのね、この車」
「まぁ、メルセデスがSLをセダンにしたらこうなったというよりも、ポルシェがFRセダンを作ったらこうなったという方が正しいかな」
「分かります、その意味。
 この車がいかにすごいのか、よく分かりました。
 オジサマにどこで運転したかは言えないけど、500Eを運転したよと言えるようになったのは嬉しいです」

 陽子は、車の癖を知るのが早いのか、大きめのボディの500Eをうまく操っていた。
「もう1周、どうぞ」
「いいですか?すごく楽しいですね、500E!」
 自分のBMWとも違うFRの特性を楽しめるほど余裕があったことに陽子自身が驚き、楽しんだ。

 3周目が終わったところで、陽子はすっかり自分の車のような顔をして運転していた。
「じゃあ、マンションに向かいますね」
 陽子はスムーズに車線変更して、環状線から外れていった。
「安全運転でよろしくお願いします」
 武田はウィンクして、微笑んだ。
「セダンでドライブを楽しめるなんて思わなかったでしょ?」
「ええ、意外でした。
 やっぱりポルシェの血というかDNAが入っているからでしょうね」
「私もそう思います」


「哲也さん、あのアストンを買うのですか?」
「この車を手放して、買うのか、ということですか?」
「3台は多すぎるかなぁ、と思って」
「そうですよね。ポルシェを手放したらどうかな?」
「それはないですね。
 スポーツカーの2台体制は生活上無理があります、日本では」
「実際にはあのポルシェ、手放せないでしょ?」
「そうですね、かなり作り込みましたから」
「ポルシェってそういう車ですよね。
 自分で作っていくというか、成長させていく車だと聞きました」
「調整の幅がすごいありますので、工場から届けられた段階では、みんな同じ車だったのに、数年もすると全く違う車になってしまっていますね。
 改造とかチューンではなく、エンジンの回し方や加減速の癖とか…」
「それに、バーバリーの子との大切な空間なんですよね、あのポルシェは?」
「まぁ、そういう要素もあります」

 陽子は武田の心理が分からないところがあったが、もしかしたら、似た者同士なのかもしれないと感じる部分もあった。
 お互いにきちんと決まった相手がいるのに、欲求に従って体を重ね、快楽を追求していくことに躊躇も後悔もない。その時間はパートナーに申し訳ないとすら思っていないのかもしれなかった。

 自分は生活の糧を得るためにパパの庇護下にあるし、オジサマの"時間限定の恋人"になっているが、その間、他の男に惹かれたことはなかった、武田に会うまでは…。

 武田は武田で既に数年付き合ってきた彼女がいるのに、自分と一緒にドライブに出かけるし、高価なプレゼントをしてくれるし、ベッドでは恋人のような情熱的な時間を共有してくれる。

 見た目と違って、情熱で動く男なのか、何かが壊れている性格破綻者なのか…。

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