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月と六文銭・第四章(4)

 武田は、自分の部屋のオーディオでCDを聞きながら、米中央情報局(CIA)でのトレーニングを思い出していた…

~車好き~


 武田は狙撃手の訓練期間中に、飛行機の免許を取るチャンスを与えられた。しかし、当時は車の方が好きで、すぐに上達すると思われるレーススクールへの入学を希望した。

 伝統があり、フォーミュラ・ワン・ドライバーも多数輩出していた「ジョン・ラムズ・レーシング・スクール(JRRS)」へ入学した。飛行機に比べ、自動車の方が日本では乗る機会が多いだろうからとも思ったのだ。

 結局、航空機は固定翼(セスナ)と回転翼(ヘリコプター)の基本的な操縦法を学んだが、免許取得は時間切れに終わった。


 JRRSは期間数日のトレーニング・プログラムをメインにレーシングカーとストリートカーの挙動を学ぶ機会を提供していた。武田はわがままを言って、ストリートカーから始めて、レーシングカーのアドバンスドレベルまでを受講し、毎日午前は座学、午後はひたすら走り込んだ。

 日本で運転免許を取り、普段はニッサンの2リッター16バルブのFR車を運転していたので、それなりにこの形式のエンジンの特徴を理解していたつもりだった。

 しかし、JRRSで教材として使っていたフォーミュラ2級レースカーは、エンジンの容量(2リッター)もエンジン形式(4気筒DOHC 16バルブ)も同じだというのに、エンジン出力がほぼ直接リアタイヤに伝わる車体で、目が覚めるような加速、目が前に飛び出てしまうような減速に病みつきとなった。


 帰国後は自分の車のエンジン内の掃除とブレーキ類のメンテをディーラー任せにせず、ディーラーから戻ってきた車をジャッキアップして、自分でも細部を確認するようになった。スパークプラグも外して、鉄ブラシで発火体のすす落としもした。

 毎晩のように走り、週末は朝早くから箱根に向かい、4週間に一回はエンジンオイルとタイヤを交換した。エンジンオイルは100%合成品を入れ、タイヤは当時はまだ60扁平だったので、頻繁に変えてもそれほどお金はかからかなったが、オイルは贅沢品だった。

 塾の講師と家庭教師のアルバイトで得た金は全てつぎ込んでいた。毎週の箱根通いに加え、A級ライセンスを取ってサーキットも走ったが、夜の首都高を何度も周回したり、第三京浜を世田谷から横浜まで流すのが好きだった。


 大学卒業後、最初に勤めた役所から外資系金融企業に転職して、能力と実績に対応した給与をもらえるようになると、欲しいと思った車を購入しては2、3年程度で入れ替えていった。

 学生時代の国産の4気筒16V(バルブ)から独VWゴルフの16V、独メルセデスの16V、独BMWのM3、独ポルシェのフラット6。こうした車を経験する中で、ポルシェの911は自分に合うと感じたので、3台も乗り継ぎ、メルセデスは今の500Eが2台目だった。

 固執するなと言われていたが、ポルシェのGT3とメルセデスの500Eを手に入れてから、どうしても手放せないでいた。業界でも自分の車好きが知られるようになったら、いっそのことBMWのM3かM5を購入してカモフラージュしようかと考えていた。さすがに日本で3台も車を持つのは駐車場代、税金、整備代を考えるとお金をかけ過ぎだと言わざるを得ないので実行はしなかったが…。

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