インタビュー記事は話し手の個性を表現すべきではないか

 時折アニメ雑誌などからインタビューを受けるわけである。

 昔は、ライターが起こした原稿を事前にチェックするという風習はなくて、送られてきた雑誌を読んで初めて自分のインタビュー記事の内容を知ることができた(担当者がアバウトだと雑誌を送ってこないこともしばしばあって、催促の電話をかけたことも一度や二度ではない)。
 いざ記事を見て、「こんな事言ってないぞ」とか「おれ絶対こんな言葉使ってない」とかがっくりきて、けれども何となく諦めてしまうような場だったのだ、インタビューというものは。
 それでも、あまりにも言ってないことを書かれたので編集部に抗議し、お詫びを載せさせたことも一度だけあるけど。

 そんなわけでおれは他人のインタビューを読むときにも、「ぼんとにこんなこと言ったのかな」と疑ったりしている。でも普通の読者の中には、この人はこういう言い方をしたんだな、と信じてしまう人もいるだろう。

 90年代頃から、アニメ雑誌でも事前の原稿チェックの依頼が必ず入るようになってきた。そして、自分で手を入れられるようになったらなったで、これまた色々と気になることが出てくるのだった。

 真っ先に思い浮かぶ気になる言い回しは「~なんです」と「~るんです」。
 これらは「悪しきインタビュー用語」と位置づけられている(おれによって)。
 自分の発言を昔の記事から拾ってみると、こんな感じ。
「ぼくは、個人的にはこの絵は大すきなんですよ」
「納得のいくように進めるしかないと思うんです」
「説明的というのか、セリフが多いんです」(すべて80年代のアニメ雑誌から)

 新聞雑誌のインタビュー記事を見てみてください。記事のタイトル自体が「実は✕✕してるんですよ」とか「✕✕って○○なんです」みたいなのがけっこう多いし、本文の言い回しにもこれらが多用されていることが分かると思う。
 内容によっては時に押しつけがましく聞こえることもあるし、また、「~なんですよ」「~るんですね」などと結ばれていると何だか偉そうにさえ感じられる。
 そしてそれより問題なのは、話し手の人となりや個性が出ず、誰が喋った記事であっても同じような印象になりがちなことだ。

 おれは出来るだけ取材時にこの言い方をしないように気をつけているが、それでも言ってしまうことはある。しかし絶対に言ってない場合でも、全体の「締め」として「~は✕✕なんですよ」とか書かれることが多いんですよ。

 もう一つある「悪しきインタビュー用語」は、「させていただく」だ。いや、これはインタビューに限らず避けたい言葉遣いだが、インタビュー記事の場合には特に、言ってないのにおれが言ったことになってしまうのが困る。

 最近の参加作品のインタビューでもあった。二つの雑誌から別々の取材を受け、その両方で「初めて原作(マンガ作品)を読んだときにはどのような感想を持ったか」という質問をされた。
 そしてチェック原稿が送られてくると、申し合わせたようにどちらも、「初めて原作を読ませていただいたときには云々」とおれが言っている。

 あり得ない。仕事として読んだものなのに、そんな、無理を言って読ませてもらいました的にへりくだる訳がないよね。
 その原作の漫画家本人と直接話すならば、「読ませていただきました」と言うことも場合によってはあるかも知れない。でも、不特定多数の読者に向けたインタビューで、原作者に対するおれの謙譲表現を口にするということはあり得ない。

 これらの原稿は当然ながらチェックさせていただき、修正させていただくことになる。こういうライターの場合、えてしてほかにも問題が多い。 「○○は✕✕らしいです」と言ったはずなのに、「○○って✕✕なんです」と断言口調になってたりするんです。
 また、勝手に話題を付け加えて、その記事が編集者の意見発表の場になっていることすらあるんです。

 いつぞやもあった。藤子・F・不二雄先生の短編はラストの一コマがすばらしいということを語った。原稿が送られて来たので読むと、なぜか付け足しがあって、こんなだ。
 「つまりこれは落語のサゲと同じなんですよ」とか話し出し、おれがひとしきり落語談義をしておる。落語には特に詳しくないので自分からこんな発言は絶対にしない。
 インタビューの目的って、ゲストの個性を引き出すことじゃないのかな、と、昔のマンガのように頭の回りにクエスチョンマークが飛び交う。

 ここまでに書いた「悪しきインタビュー用語」というのとは違うけれど、ライターの文章力を疑ってしまうようなケースはほかにもある。

 やはり80年代のアニメ雑誌から自分の発言(まだ原稿チェックの風習がなかった時代である)。文末だけを全部拾ってみる。
 「リアルなんですよね」「作り始めたんです」「だいたいわかりましたね」「わかんないですけれども」「○○のほうが好きですね」「感情移入ができました」「○○じゃないかと思います」「愛着がありますね」「納得できましたから」「思えることが多かったですね」「出来としてはすごいですね」「気に入っています」「好きということでは○○ですね」
 13の文章のうちの七つ、実に過半数の文末が「ね」で終わっているのである。

 現在はほぼすべてのインタビューで事前の原稿チェックがあると言った。
 つい先日送られてきたのはこんな原稿だった。現代が舞台のある作品で、主人公にスマホではなくガラケーを持たせることにした理由を質問され、それにおれが答えている。
「この作品にはデジタルよりアナログが似合うと思ったんです」
 頭を抱えた。スマホもガラケーもデジタルなのだから、こんなコメントをおれがしたことにされたら、とんだ大恥である。この時のライターは全体的にこんな調子で「創作」していた。

 作品の宣伝のためにもインタビューは受けたい。でも読者に誤解されることは悔しいしイヤだ。だからできるだけ修正する。
 気に入らない場合ほど、修正し出すとのめり込み始める。結果的にほぼ全部を自分で書き起こすはめになることもある。そうなると必ず何時間もかかり、無駄に疲れる。

 とはいえ、時にいいこともあります。
 ある時、大学生(慶應大学らしかった)のサークルから同人誌のためのインタビューを受けた。「桃歌台学園雅研究会」というグループ名で、おれの過去作『桃華月憚』に関するもの。本のタイトルは『幻想綺譚輯』。
 この時のテープ起こしはとてもうまくて、しかもけっこう面白かったのだ。ただの一ヶ所も修正せず、脚注を一つだけ追加してほしいという要望を出しただけという、嬉しいケースだった。

 ある時期からインタビューの際には、以上書いた中の要点だけを印刷したものを編集者に渡すことにしている。

(2014.3初稿/2020.7改稿)


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