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「勇者指令ダグオン」の頃

  「勇者指令ダグオン」の制作に参加してからちょうど25年になったので、そのことに驚きつつ、あれを作った頃の話を少しばかりしてみたいと思います。とりとめもなく。
                                   勇者シリーズは毎年、2月から放送を開始して翌年の1月まで、というサイクルで続いていました。その理由はタカラのおもちゃ販売計画にある。放送開始からゴールデンウィーク・夏休みなどを経て、クリスマス商戦と共にストーリーもクライマックスを迎えるというタイムスケジュールである。
 一年間のおもちゃの発売予定日はあらかじめ全て決まっていて、それと同時に放送でその新メカが登場しなければならない。当然、シリーズ構成も発売予定日前提で作っていく(ただし予定のメカさえ登場すれば、ストーリー自体はスタッフが決定していきます)。
 ちなみに各メカが合体するアイテム(パトカーとか新幹線とかジャンボジェットとかetc)もスポンサーサイドで決めてある。おれは理屈っぽい方なので、なぜパトカーか、なぜ新幹線か、という理由付けのために「宇宙人が地球の乗り物をコピーしてロボットを作った」という設定にしたのだった。

 ストーリー作りと並行して大河原さんによるメカデザインが始まり、それからスポンサー側でメカ用の金型製作が始まりそれからおもちゃを作っていくわけなので、とても時間がかかる。だから、色々な打ち合わせが始まったのは放送前年の春(4~5月頃)だったと思う。テレビシリーズとしてはかなり準備期間が長かった。このスパンで3年連続で勇者を担当した谷田部・高松両監督はすげーなあと思う。

 主人公たちが高校生だというのは企画段階ですでに決まっていた。その前提で我々が生み出したのがあの七人で、それぞれが分かりやすい個性を持った良いチームだったのではないだろうか。主役たち全員をそれぞれフィーチャーしながらシリーズ構成を作っていくのは楽しい作業だった。
 先ほど書いたとおりクリスマス商戦までの流れがおもちゃ屋さんからの至上命令なので、逆に明けて1月の放送分に関しては、内容はスタッフの自由なのである(スポンサーの関心はもう次のシリーズへ行っているからね)。ダグオンの場合は、みんなで主人公の帰還を待っているだけというメカ物らしからぬ結末を作ったわけで、おれとしても非常に印象に残っている最終回だ。

 ここから書くことは今まで特に発表したことのない内容ばかりなので、サンライズファンには少しくらい興味を持ってもらえるかも知れない。

 サンライズの社長(当時)の吉井孝幸さんは、ありきたりな表現ですがとてもいい人でした。おれが「ダグオン」を担当することになった時に飲みに誘ってくれて、その席で監督の心構えとして、三つのことを言われた(もう二十五年も経つのだから、ありのまま書こうと思う)。

◆その一
 勇者シリーズは未就学児童が対象であることを忘れないでほしい。
◆その二
 ストーリーを作る上で、ロボット(おもちゃ)を邪魔者にしないでほしい。
◆その三
 佐々門さんはローテーションの一人であり、スケジュールを支える上で欠かせない人なので、認めてほしい。

 以上の三点だった。こんなにはっきりと記憶しているのは、吉井さんの話し方がうまかったからだと思う。心に留めた。

 ロボットの合体のバンクシーンを演出したのはほぼ全て故・山口裕司氏、作画は鈴木竜也・卓也兄弟である。「おもちゃを邪魔者にしない」ためにおれが指示した一つは、おもちゃと完全に同じように変形する、という方針だった。
 それまでのロボットアニメは大抵、手の部分は腕の筒の中からスルッとカッコよく出てきていたが、ダグオンではおもちゃの通りに180°折れ曲がった状態からネジで回転する形で出すようにしたのだ。その他のパーツも全てその方式を取った。
 見た目がカッコ悪いかな、とも危惧したが、案に相違してこの方式でやってよかったと今でも思っている。気がついてくれてる人がどのくらいいるかは分からないけれど。

 吉井社長との雑談の中で、おれがプリンセスブリンセスのファンだと言う話をしたことがある。そして何と吉井さんは、ギターの中山加奈子の親戚だったのである。
 ダグオンの作業が終わる頃だったか、プリプリ解散コンサートの親戚チケットを譲っていただき、吉井さんの娘さん(高校生)と一緒に武道館へ観に行ったということがあった。ほんとうにありがたい思い出である。
(娘さんは大学卒業後に地方のテレビ局のアナウンサーになったという話だったが、その後どうしているのだろう)

 ダグオンのアフレコは毎週、朝の10時からだった。終了後によく、音響監督の故・千葉耕市さんとか声優の人たちとかとみんなで遅い昼食を食べるのが楽しかったな(いつも「石の家」という中華屋だった。千葉さんがボトルキープしている紹興酒を飲みながら)。
 はじめのワンクールくらいは、「ほにゃららゲリオン」のアフレコが同じ曜日の夕方からだったようだ。子安さんらが「石の家」から、「このあと仕事があるので」といつも先に退席していた。「あまり面白い作品じゃないから行きたくないんだけど」と言うこともあった(おっと今おれ、口がすべったか?)。

 ダグオンでもう一つ思い出すのは、おもちゃの事。勇者シリーズはタカラから、年間通じて何十種類かの玩具が発売された。それを、監督であるおれは全部もらっていたのである。もらうたびに、大きな紙袋に入れて家に持ち帰っていた。
 その頃、長男が2歳くらいだったので、これ幸いとばかりに遊ばせていた。おもちゃの数が多いので、やはり小さかった甥っ子たちなんかにお土産にしたりもしていた。もちろん、小さな子供たちが遊ぶわけだから、いづれは壊れたりパーツがなくなったり。まあそんなふうにして、ダグオン玩具は我が家からは、いつの間にか消滅したわけである。
 低年齢向きの超合金おもちゃって、あの頃が最後だったのだろうか。いや、その後もあるのかも知れないが、全盛期はそろそろ終わりだっただろうね。

 それから十年くらい(?)経って、たまたまヤフオクに勇者シリーズのおもちゃが出品されているのを見たわけだ。シリーズのどの作品だったかは忘れたが、大きめの製品(メインロボということ)の箱入り未開封で、十万単位の値段が付いていた。
 うーむ。
 もしも、と考える。もしも今、あの時のダグオン玩具がすべて未開封の美品で手元にあったとしたなら。もしかして、完全揃いということで数百万円の値がついたのか・・・? まあ、たられば話はしても仕方がない。当時はそんな先見の明などなかったし、子供たちが楽しんで遊んだのだから「よし」とするしかあるまい。

 あ、ジブリに入っていた頃に忘年会でもらった宮崎アニメのセル画。何枚もあったな。みんな、知り合いの子供とかにあげてしまった。・・・いやいやこれも、後悔なんかしてませんとも。

(2016.4初稿/2020.6改稿)

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