見出し画像

孤独について、つらつら(その2)

続きです。前回はこちら。

oneとlonelinessとalone

昨日の記事で「only」や「lonely」といった単語を持ち出したが、私は

孤独=「loneliness」

…などとは、思わない。なぜなら孤独にまつわる感情は、淋しいとは限らないからである。

onlyやlonely、lonlinessといった単語の語源は「one」、つまり「1」だろうと考えたが、ふと、「alone」という単語を思い出した。

世代的に「alone」と言えばB'zだが、aloneは「all one」が語源にあたるらしい。圧倒的に1人、て感じでしょうか。

画像1

孤独の喜び=「solitude」

調べてみると、”1人である”という状態を表す単語としては「solitude」があるらしい。一人の気楽さ、楽しさを表しているとも言う。

昨日の記事で挙げたガルシア・マルケスの『百年の孤独』の原題は『One Hundred Years of Solitude』である。lonelinessではないのだ。

「孤独」の語源

さて、日本語の「孤独」の語源を調べてみたい。

私の大学時代の専門は「中国古代の本草書」である。ほんぞうしょ、と読む。簡単に言うと、中国古代の百科事典のことです。

大学時代に学びながら「原典に当たる」ことが身についた。言葉の意味を調べるときは、国語辞典だけでなく、漢和辞典も引いて、その言葉が成立した年代、時代を把握する。言葉は時代によって意味が変わるからだ。

当初、予想として「英語の文章が日本へと渡ってきた際に、lonelinessを表現するために”孤”と”独”という、「1つ」を表す言葉を重ねて強めたのではないか」と考えた。

ぐぐってみると、和銅四年(711)に書かれた『続日本紀』に登場していたようだ。日本最古の使用は多分、これだろう。私の予想は外れた。

「孤」の成り立ち

「孤」という感じは元々、古代中国で生まれたようで、「みなしご」を表していたようである。「孤」=「孤児」ということだ。

『論語』に登場する「孤」

孔子の『論語』にも、「孤」という言葉が登場する。

徳は孤ならず必ず隣あり

この場合の「孤」は「みなしご」の意味ではない。文章は「徳のある人は、1人に見えても1人ではない。必ず、共感する人がいる」…といった意味のようである。

孔子の人生を重ねて考察すると、「隣(自分の考えに共感してくれる誰か)」は「(家族など)自分の近くにいる人」とは限らないと言いたいのではなかろうか。

孔子は紀元前500年ぐらいを生きた人間なので、その頃には「孤」という概念も漢字も、既にあったということである。

『ぼくを探しに』

孤独について思索していると、”先生”と呼んでいた人たちが紹介してくれた、様々な本が思い浮かぶ。私としては”本に呼ばれている”と感じる現象である。『ぼくを探しに』もそんな1冊。

画像2

この本は小学6年生の頃に、担任の川角先生(男性)が勧めていた絵本である。たしか、クラスの全員で読んだとも思う。ただ、私は釈然としなかったし、なんでこんな本が売れるんだ??…と思った。

読んだのはカラーの絵本だったように記憶しているので、↑ の本ではなかったのかも知れないし、パックマンなど近い形状のものと混同している可能性もあるが、内容は変わらないだろう。

12歳の私の解釈としては「旅をして運命の誰かに出会う物語」であった。それは喜ばしい場面かも知れないが、私にはどうでもよい話でもあった。

川角先生と『ぼくを探しに』と『山椒魚』

川角先生は当時29歳で、学生時代から陸上競技をやっていたがケガをして。最初は都市部で教師をして、実家のある島根県(ど田舎)に戻ってきた…といった経歴だった。体罰などせず、熱心に指導する方だったと記憶している。

彼は体育の授業にも熱心で、縄跳びの授業ではトランポリンっぽい自作の道具を作って、いろいろな子に三重飛びをさせていた。私は飛べなかったが、縄跳びってこんな方法もあるんだ、楽しいスポーツなんだな…と感心した記憶がある。

川角先生は体育だけでなく、朝礼や道徳などの自由時間を使って物語を紹介していた。その中で私の記憶に残っているのが『ぼくを探しに』と井伏鱒二の『山椒魚』である。

小学生の私には、『ぼくを探しに』も『山椒魚』も全くピンとこなかったのだが、様々な経験を経た40歳の私だと、感じ方が違うような気がする。

記憶をたどると、どちらの物語も「孤独」を描いていたような気がするのだ。

種が花開く瞬間

40歳になって、両親が死に、2人の娘を育てている現在は、今まで大人の人たちが私の心に蒔いてくれた種が、次々と花開いているような感じがする。

それは、自分が過去に読んだ本だったり、親が買って家の本棚にあった本だったり、先生と一緒に読んだ本だったりもするが、国語の教科書で読んだ物語もある。『花いっぱいになあれ』という、記憶では小学1年生の頃に、教科書で読んだ物語も思い出すことが増えた。

「人生の伏線回収」と呼んでいるが、大人の善意や知恵、愛のようなもの、を感じることが多い。「恵」とはこういったものなのかも知れない。

私が孤独を感じにくいのは、今まで会った誰かと、心の中で何度も会話できるからなのかも知れない。

サポート頂いたお金は、漫画や本の購入に充てさせて頂きます。レビューして欲しい本などあればコメントでお知らせください。