音楽の力を感じない僕が楽曲から感じる力の話

 どうも、バーチャル魔法生物マネミックです。
今回はチラ裏日記、というか今まで自分の中にあった「音楽ってよく分からん」という感情に対して思う事があったので忘れないうちに纏めておきます。

 表題の通り、僕は音楽の力をあまり感じないタイプの魔法生物なんです。
ここで勘違いしてほしくないのは「音楽に力なんて無ェよ」って事ではなくて。音楽の力を感じる人は沢山いて、実際に心とか命を救われた人もいるだろうことは分かっている。でも、僕はそれ程じゃないって事です。
 これは多分(魔法生物的)生育暦とか自我の育み方の過程によるものかもしれない(勿論違う可能性もある)と思っていて。自我のハッキリしていなかった頃はお歌遊びより絵本読みが好きでしたし、少し自我の発達してきた段階でも暇な時間があると大書庫にいって書物を読み漁る事が多かったように思います。また、ゲームのBGMにあまり思い入れが無いという話を度々するのですが、これは他の生き物の邪魔にならないように音を限りなく小さくしてゲームをしていたというのが大本にあるような気がしますね。

 そんな僕なので所謂「歌ってみた」ジャンルには興味がありませんした。大手のVの方がライブを行ったり、オリジナル楽曲を発表する事に対して、「活動として」凄いと思う事はあっても「楽曲」として凄いと思う事はない(だってそもそも興味がないんだもんね)というような感じでした。
 このように音楽に興味のない僕が「楽曲を聞いて」良いなぁと思う数少ない経験がありまして。それが咲乃木ロクのStart-upを聞いた時、日辻シラムのヒツジノユメを聞いた時、BOOGEY VOXXのVRを聞いた時だったんです。(それぞれyoutbeへのリンクを貼ったので飛んで気に入ったら然るべき手段を取ってね)挙げた3つの機会がラップ関係の方々のは多分偶然、というか交友関係的な要素だと思います。音楽に興味が無い故に音楽系にアンテナを貼っていなくて、交友関係内でラップをする存在がいたから、そこに比重が偏る的な。
 この3つの機会に「良い」と思ったのは知っているVの曲だから、というのも多分にあるかもしれません。ですが、何故強烈に「良さ」を感じたのかその答えの様なものに最近が気が付きました。

 きっかけは、ソクブイカイの本部配信終了間際、BOOGEY VOXXのFraさんの言葉でした。正確な言葉じゃないんですが「この後公開する動画(そのときは曲名が???だった)では『文脈』で殴り飛ばす」というような言葉だったと思います。 
 この時僕はBOOGEY VOXXをそれほど追っていなくて。BOOGEY VOXXデビュー当初から「伸びる感」と「プロデュースされてる感」を感じてこの存在達は勝手に伸びる(勿論勝手に伸びるVなんて存在しない事は分かっていますが)だろうなと感じていました。ここで感じた「プロデュースされてる感」というは企業っぽいとかバックに誰かいるとかそういう事では無くて、コンセプトがしっかりしているというか「自分達はこういう存在で」「こういった目標があって」「達成の為にこんな仕掛けを用意している」というのが見えてきて、見せたい自分達の見せ方を準備しているといった感じの奴です。ともかく、BOOGEY VOXXとは当時の僕にとって非常に失礼ながらそんなに思い入れは無くて。ソクブイカイの主催で最近気になっているVとして偶にみる存在達といった感じでした。
 そのような僕でしたが、その時はソクブイカイ終了の熱に導かれるまま「VR」プレミア公開を見に行き、そして『文脈』で殴られました、そりゃボコボコに。前述の通り、BOOGEY VOXXを追って日の浅い、そして強い思い入れもない自分ですら、この曲にはBOOGEY VOXXのこれまでとこれから、そして仲間たちへの思いが込められていると分かりました。分かってしまいました。自分は『文脈』の表層をなぞっているに過ぎず、周りにより深く文脈を汲み取んでいる人たちがいることに悔しさを覚えるくらいに。
 そして同時にふと思いました、自分がこれまで楽曲に対して感じていた「良さ」とは即ち『文脈』の事ではないかと。

 例えば咲乃木ロクの「Start-up」を聞いて「良い」と思ったのは、咲乃木ロクを知って間もなく、もっとよく知りたいと思っていた僕が自己紹介である「Start-up」によって咲乃木ロクという存在を深く知るという流れがあったように。
 特に日辻シラムの「ヒツジノユメ」こそ顕著に『文脈』によって「良い」と思わされた作品でしょう。「ヒツジノユメ」については以前noteに書いたんですけど。YouTubeでヒツジノユメのクロスフェードを聞いて、この楽曲は日辻シラムが作った楽曲だと思った瞬間心が震えたんですよ。その時は何故心が震えたのかについては深く考えていなかったんですけど。今になって思えば、日辻シラムという男の苦悩や試行錯誤をそれなりに近くで見ていて、日辻シラムが答えを得て形にした楽曲である。そうした『文脈』に僕は心を揺らされたのでしょう。

 と、ここまで『文脈』『文脈』と言ってきましたが(新しく難しい言葉を知った少年のようだね)これがFra氏や音楽関係者の言う『文脈』と用法が違ったら恥ずかしすぎて茹でミックになってしまいますね…!多分、恐らく、きっと、用法としてはそれ程遠くないものだとは思いますが、あえて僕なりの別の言い方をするとするならば、それは『意志の力』と呼べるものなのだと思います。「Force of Will」とても良い言葉ですね。
 多分、この意思というのは作品に込められた熱量とかの事ではなくて(そもそも熱量の込められていない作品など無いと思っています)「僕」が作品に込められた「意思」をどれだけ読み取れるかという事なんでしょう。
 読み取る、というと名前を出しまくってしまって超アレなんですけど、VRでBOOGEY VOXXに対する『文脈』を得た僕はそこから遡って過去に投稿された動画を見て「良さ」を感じるようになりました。そんなの好きになったから好きになっちゃっただけじゃん。と思われるかもしれないんですけど、これはマジでぶぎぼの歌に対して気持ちを入れて聞くことが出来るようになったんですって!

 これまで僕が音楽に対して思い入れがなかったのは、恐らく当事者感の欠如というか自分には関係ない人に向けての歌?みたいな気分もあるのかなと思います。この歌は俺に向けて歌われた歌じゃないみたいな?
 今回挙げた3つの機会で僕が「良さ」を感じ取ることが出来たのは、タイミングであるとか、経緯であるとか諸々の要素が僕に「読める」瞬間をつくってくれたからだと思います。
 世の中にあるもの、読めないよりは読めた方が絶対楽しいと思うので「読解力」高めていこうな…!高め方分からないけど…!

とそんな感じで今後も音楽自体ではなく、それを取り巻く状況とか自分自身の状況によって力を感じていくんだろうなぁ思うマネミックでした!

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