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ほんとうのわたしに戻れる時間

マスターが、ぎーっと扉を閉める。
ここは、町のざわめきから外れた、古いジャズクラブ。
ピアニストと歌い手が出てきて
ポン、と弾いた音が飛び出した瞬間、
歌い手の姿は黒くて艶々の毛並みの大きなドーベルマンに、
ピアニストは、真っ白な耳の生えたウサギの姿に変わって、
あっという間に美しい音楽が私の心と体を包みました。
あまりに心地よい音色だったので、
目をつぶって、音楽に身を浸しているうちに、
あっ、ほんとうはいけないのに、わたし、実はノギツネだったんです。
ノギツネの姿に戻ってしまいました。

おそるおそる、目をあけて隣の人を見たら、
なんと隣の人は、りっぱな角の、サイでした。
その隣の人は、きれいなピンクのフラミンゴでした。
あっ。みんな、ほんとうの姿に戻ってしまったんです。
大丈夫かしら。
ほんとうの姿は、家の中でしか見せちゃいけないのに。
わたしたちはちいさなころから、そう教わります。
おうちを出るときは、ひとの姿にならなきゃいけません。
学校でも、電車でも、会社でも。
ひとの姿で、いなくちゃいけません。
そうでなければ、つかまってしまいますよ。
お母さんがそう教えてくれました。

大丈夫かしら。ちらりと横を見ます。
でも、隣のサイさんは、ちっとも気にしていないようです。
ちっとも気にせず、うつくしい音色に体を揺らしています。
その隣のフラミンゴさんは、ジーッと目をつぶって微動だにしません。
あら。向こうの席の人なんか、小さな小さなネズミさんでした。椅子にちょこんと座って、ジュースを抱えて聴いています。
ここでは、わたしがほんとうはノギツネなことも、あたりまえみたいです。
そうっと後ろを見ると、マスターも、ネコの姿で演奏を見守っていました。
お店の扉が閉まっている今は、わたしたち、ほんとうの姿で、いていいんです。

演奏が終わって、マスターがぎーっと扉を開けたら、何人ものひとが、なにくわぬ顔して、ざわざわと帰っていきます。
みんな、お互いのほんとうの姿を、知っているけど、なにも言いません。
ほんとうのわたしに戻れる時間、秘密の場所。
今日はそこに、行ってきました。

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