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置いてきた名前の、後始末

久しぶりにログインしたアプリの中で、
数ヶ月ぶりに自分の旧姓を見た。
ドキッとした。悪い意味で。

なぜ名前を変えた?私はどこへ行く?
置いていかないで。

そんな風に見つめられたような、
罪悪感を抱いた。

そう気付いてからは、
旧姓を見るのを躊躇するようになった。

結婚してから変わった苗字、
正直気に入っている。
名前を変えたく無い、
別姓にしたいなんて思ったこともない。

新しい名前を気にいる反面、
昔の名前を切り捨てしまったような、
置いていってしまったような感覚になっていた。

マリッジブルーの一種なのだろうか。
昔の名前が、ずっとどこかで、
こちらを見ている。
これまでの26年間はどうなるのか?
無くなるわけじゃない。
あくまで私は続いている。

数日間悩んで、ふと、ポケモンと一緒じゃないか?と考えた。
ただ進化しただけ。
名前も雰囲気も変わるけど、
個体は変わらない。

でも待てよ、ポケモンは実在しないではないか。
そういえば小さい頃、
気に入ったポケモンが進化して
姿や呼び方が変わるのが切なかった。
これでは納得できない。

なぜ今ブルーなのか。
それは、昔の苗字での物語があって、
それが終わってしまったからではないか。
振り返るまもなく、余韻もなく、
瞬間的に変わってしまったからではないか。



私の旧姓は、珍しいものではない。
先祖は川の近くにいたんだろうな、
と思わせる苗字だ。

小学生の頃は嫌いだった。
同じ名のつく動物園があって、
よくからかわれた。
苗字を英訳するのが流行ったときは、
いまいちかっこよくならなくて、がっかりした。
習字で書くと、左右のバランスが取りにくくて
何度も失敗した。

高校ではじめて同じ苗字の子と出会えて、
名前を好きになれた。
その子と一緒に動物園に行ったのは
いい思い出だ。
受験の時、名前の画数が多くないから、
すぐ問題に入れることに感謝した。
人生で一度も、読み間違えられなかった。

パッと思い返すだけでも、
これだけ苗字との思い出があった。
振り返ると、
そんなに悪い苗字じゃなかった気がする。

なんだこの感想は。
まるで卒業式みたいじゃないか。
そんなに悪い学校生活でもなかったな、
楽しかったな、みたいな。
そうか、私は卒業式をしていなかったのか。
区切りを付けていなかったから、
次に進めなかったんだ。



なぜ人は卒業式をするのか。
学校で過ごした、
なんでもない日に思いを馳せる。
何か結果が残るわけではない。

でもこの時間は、
各自の心の中で、大きな意味を持っている。
たしかにこの日々があったことを、
証明することなんだと思う。

だから今、卒業式の代わりに、
こうしてこれを書いている。
さようなら、ありがとう、旧姓の自分。
私は進化していく。
あなたを忘れずに、
あなたの上に、新しい自分を築いていく。

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