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16 ファミコン神拳の時代

 1988年の2月、ぼくは初めて神保町にある集英社を訪れる。当時「週刊少年ジャンプ」の巻頭に月イチで連載されていた袋綴じ企画「ファミコン神拳」の執筆メンバーに抜擢されたからだ。
 それ以前に仕事をしていた「スコラ」も「ファミコン通信」も、業界の基準に照らしてみれば原稿料は決して悪くなかったが、さすがに集英社は違った。原稿料がいいのもさることながら、編集者各人に許されている必要経費の枠が大きいのだろう。なんというか、食に対する待遇がいいのである。
 初めて「ファミコン神拳」の定例会議に呼ばれ、集英社の地下会議室に集まったとき、担当編集が「お茶とるけど、とみさわくんは何がいい?」と声を上げた。ぼくは1階ロビーにあった自販機で缶コーヒーでも奢ってもらえるのかと思ったら、そうではなくて近くの喫茶店から出前をとるのだという。たかがコーヒーを? 出前で運んでもらうの? そんなの初めて知った。贅沢~。
 定例会議はいつも夕方から始まるので、ちょっと長引けば夕飯の時間になる。すると、また担当がやってきて「お弁当とるよ~」と言う。お弁当と言ったら「ほっかほか亭」のノリ弁ばかり食べていたぼくは、集英社だからもう少しマシな弁当を頼んでも許されそうだな、よ~し唐揚げ弁当いっちゃうか~! なんて思っていたら、ゆう帝(堀井雄二)さんが「今日はバラライカでいいんじゃない?」なんて言う。
 バラライカというのは千代田通りにあったロシア料理の名店で、そこからお弁当をとるという意味らしい。しばらくして届けられたのは20×30センチくらいの箱で、中にはでかいハンバーグだのビーフシチューだのが盛りだくさんに詰められた豪華弁当だった。もちろんものすごくうまい。いったいこの弁当はいくらするのだろう? 担当さんが配達人から領収証をもらっているとき、こっそり値段を見て人数で割ったら1人前が約2,500円もしてぼくは仰天した。ジャンプで仕事をしてる人たちって、こんないいもの食ってるのかーーーー!
 他にも、「今日は鰻でいいよね」とか、「寿司とろう」とか、そんなセリフは会議のたびに聞いた。あるいは、作業が深夜に及ぶときは外へ食べに出掛けていった。いまも現存する台湾料理の「台南担仔麺」では、生まれて初めてパクチーというものを食べた。「ベジタリアン」はもうないが、ハムステーキが分厚くて美味かった。なんで肉料理が名物なのにそんな店名だったのかはいまだにわからない。
 外食する際には、雑誌の編集者は当たり前のようにビールくらいは飲んでしまう。もちろん、ぼくもご相伴に預かる。必要経費でずいぶん酒も飲ませてもらったな。
 あの頃の少年ジャンプは発行部数が400万部を超え、さらにぐんぐん伸びていた時代であり、「ファミコン神拳」も読者アンケートで常に上位に入る人気企画だったから、それくらいの贅沢はさせてもらって当然だったのだろう。ぼく自身の参加がどの程度、部数に貢献できていたのかはわからないが、文字通り“おいしい思い”をさせてもらったことは間違いない。

 ジャンプの仕事が終わるのは、だいたい夜中の2時~3時。そのあと誰にも誘われなければ、そのまま自転車で深夜の靖国通りを突っ走って曙橋の事務所まで帰るのだが、たまにミヤ王(宮岡寛)さんやキム皇(きむらはじめ)さんに誘われて、六本木まで飲みに付き合わされることも多かった。当時の彼らは六本木に行きつけのクラブ(DJがいる方のクラブじゃなくて、ホステスがいる方のクラブ)があったのだ。
 ほか弁を主食にしているぼくが、クラブ遊びなんかしたことあるわけがない。まあ緊張しますわな。映画やドラマでしか見たことのないようなフロアに案内され、ふかふかのシートに腰を下ろす。すると、「何をお飲みになります?」というような質問などなく、ホステスさんはミヤ王のボトルを取り出して問答無用でウィスキーの水割りを作り始める。こっちは味なんてわかりゃしねえ。
 どのくらい飲んだかな。空が明るくなってきたら解散。支払いはもちろん先輩方の奢り。金額を盗み見て腰を抜かしそうになったけど、その額はここには書かないでおこう。
 ホステスさんたちは、店の外まで見送ってくれる。先輩方はタクシーを停めて乗り込んでいく。ぼくはカラスを避けながら始発の動き出した駅へ向かって歩いていくのだ。

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