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10 田町の豚の柳川と川崎の初体験

 専門学校を卒業すると、東京の田町にある製図会社に就職した。最寄駅は山手線の田町だけれど、駅から延々と歩いていって、高輪との境界あたりの魚藍坂にその会社はあった。
 社屋は、良く言えば木造二階建ての歴史ある建物で、悪く言えば築70年は経っていそうなボロ屋だった。社内を歩くと床がギシギシ鳴り、机もガタガタ揺れる。敷地の隣は墓地だった。
 入社して、先輩・上司たちによる歓迎会や、部署ごとの飲み会なんかもあったとは思うが、それはほとんど覚えていない。それより印象深いのは、同期や後輩たちとの連日の飲み会だ。
 安月給とは言えサラリーマンになったのだ。学生時代のアルバイトとは違って、毎月そこそこの定収入が得られる。独身で、実家住まいだから、趣味以外に給料の使い道はない。ぼくは本やレコードを集めるという、無趣味の人に比べればお金のかかる人間ではあったが、会社帰りに安酒場で飲むくらいのことは全然OKだ。
 同期といっても、ぼくと一緒に入社したのは同じ専門学校出身のMくん一人だけで、あいにく彼はお酒を飲まない。だから飲み会には来ない。それとは別に、同い年の大学生がアルバイトで来ていて、このTくんとぼくはやけに気が合い、いつも会社の帰りに飲んでいた。
 他には、一年後輩のKくんと、あと一人か二人いたように思うが、名前までは思い出せない。

 当時の安酒場というと、「村さ来」「北の家族」「つぼ八」「養老乃瀧」「天狗」といったあたりの名前が浮かぶだろう。ぼくらが足繁く通っていたのは、田町駅前の裏通りにあった天狗だ。
 席に着いたら「とりあえず生でしょ?」と人数分の生ビールを頼んで、乾杯する。生を飲み干したら、次はレモンサワー。まだ酎ハイの魅力には開眼していない。というか、80年代初頭の若者は誰も酎ハイなんか飲んでいなかった。
「焼酎の歴史」を検索すると、「80年代には酎ハイブームが始まり…」なんて記述が出てきたりもするし、なんならメニューにも酎ハイと書かれていたかもしれないが、当時のアレは明らかに酎ハイではなく、甘酸っぱいレモンサワーだった。それをぼくらは何の疑問も抱かずに飲んでいた。
 つまみは、なんといっても「豚の柳川」。豚の薄切り肉をどじょうの柳川鍋と同様のスタイルで煮て、玉子とじにしたものだ。当時の天狗の人気メニューで、ぼくはこればっかり食べていた。
 あとは、枝豆、焼き鳥、ポテトフライ、焼きそば……。まあそんなところだろう。面倒な酒場のこだわりとか、そういうものがまだなんにも芽生えていなかった、考えてみれば幸せな時代。

 社会人になったとは言え、まだまだ学生に毛の生えたようなもんだから、自分の飲酒量を超えるような痛飲を繰り返し、電柱の陰でゲロを吐いた。終電を逃した。
 松戸まで帰れる終電がなくなると、気のいい後輩のTくんが住む、大田区のどこだかにあったアパートに泊めてもらった。ぼくの外泊癖が加速していくのは、この頃からだ。親父と折り合いが悪かったので、とにかく家に帰りたくなかったのかもしれない。
 ちょっと告白すると、この会社勤めをしているときに初めての彼女ができた。会社の後輩のMちゃん。最初の自己紹介のときから「可愛い子が入ってきたな」と気になっていたが、入社から1年後くらいに向こうから告白されて、速攻で付き合うことにした。
 まあ、デートに誘いますわな。初デートはどこへ行ったっけ。もう覚えていない。当時のぼくは奥手だったので、映画に誘うくらいしかできなかったはず。映画を見て、ごはんを食べて、夕方に解散。ホテルに誘うなんて発想もなかった。
 それでも毎日のように長電話をした。やがて一緒に飲みにいくようになり、初体験は彼女が住んでいた川崎のアパートで済ませた。以後、何かというとそのアパートに転がり込んだ。いっときは結婚することも考えたが、昔、九州の人間に騙されたことがあるという親父が、彼女の出身が鹿児島であることを理由に大反対し、それで気まずくなって別れてしまった。彼女には何の問題もない。そんなことで気持ちが離れていってしまったのは、ぼく自身が未熟だったのだろう。
 このあとぼくは、蒲田の「えとせとらレコード」で『よい子の歌謡曲』と出会い、物書きになるために会社を辞めてしまう。

※さすがに「天狗」で飲んでいた時代の写真は残っていないので、ヘッダー画像はWikipediaの「柳川鍋」から拝借した。

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